自分が自分であることを放棄したくなった
以前こちらで質問にお答えいただき、おかげさまで心が少し落ち着きました。
またひとつ、心の整理をさせていただきたいと思い投稿させていただきます。よろしくお願いします。
表題の通りです。
親ガチャはおそらく大当たり、仕事でもある程度のポストをいただけ好きな街に住み、集団の中ではムードメーカーの、しかもプライベートでは恋人もおり…という、おそらくはスムーズな人生を送っていると思われる人間です。
しかし毎日表題の気分になります。過去からずっとです。
「こうすると喜ばれるであろう」「自分がこうあることが周囲から望まれているであろう」という態度をひたすら選び続けた結果、疲弊したためです。演じているともいえます。
本当の自分は人見知りで、根暗で、一人でいることが大好きなコミュ障です。一日誰とも喋らず過ごすことが大好きで、自分から周囲に話を振るなんてしたくないです。一人旅が好きで、孤独を愛しています。
しかし完全に真逆の人柄で生活をしており「悩みとかなさそう」「一緒にいると明るい気持ちになれる」「なんでも話せる」という評価をいただいています。
その副作用で「こいつになら何を言ってもいいだろう」という八つ当たりを受け続けたり、本来の自分と同じ性格の方と話していたら「お前とは違うんだ」と言われたり……という場面の連続で「もうこんな演じまくった自分とは決別したい」の願望が常にあります。
恋人はこういった願望や実際の外面を把握したうえで好いてくれてはいますが、あまりマイナスなことやネガティブ過ぎる相談をしたくないです。(明るい自分を見て好いてくれたためです。「本来はこういう人間だ」と伝えると「闇がありそうだとは思ってたけどこれが理由で嫌いになるなんて絶対ない」と言ってくれましたし信頼していないわけではないのですが、やはり抵抗があります)
「人の役に立ちたい」の一心で、自分が選んだ生き方でこんなふうに悩むのは自分勝手すぎるとは思いますが、とりあえずは転職の準備をしております。
また、今付き合っている彼と結ばれるのであれば間違いなく転居が発生するのでそこでいやがおうなしに心機一転が起こる、リセットがある…というここを仮定のゴールにもしております。
なので「この思考に対して今とれる対処法」「この思考の正体」などを知りたいです。お導きください。
・自分には誇れるものがなくて親に申し訳ない、生まれた意味が見つけられない ・他人の幸せがうらやましい、幸せをつかむことができない自分は欠陥品だと感じてしまう
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
過去世の貯金を取り崩すか増やすか
自分の労力のわりに自分がうまく行っていて「こんなに楽でいいのかな?」と思うほどなら、仏教では前世の功徳が今結果を出していますね、と見ます。
親を選ぶ生まれにかかる業は前世の功徳だけで決まりますし、そうしてスタート地点がすでにいろいろ違うところから、今回の人間としての歩みを始めるので、上手な人はさらにうまく、下手な人はさらに下手に、などと差が開きかねません。頑張って低いところから成長する場合は、生まれの業はハンディがあったけど、生きるところで上手に頑張ったなどと見ます。
じつは、周りの人を見ながら「明るい」とか「暗い」などと考える暇はない、と仏教では見ています。生まれた時から成人するまでは自分の心身頭の成長のための学びと親への感謝・孝行に励みます。毒親でも、なるべく被害を受けずに生活できるように工夫します。
成人してからは、親を助けながら自分の仕事や新たな家族や周りにも役に立てるように励みます。
もちろん、自分が困ったときは素直に助けを求めて、助けが得られたら感謝、得られなければ、何か過去世の悪業が出てますね、と諦めます。一喜一憂せずに何度もの生まれ変わりはこういうものだと達観するとよいと思います。
明るいとか暗いとかは現代日本の一時的な判断基準のように思えます。道徳を守り智慧を身に着け自我少なく適切な生き方がどれだけできるかが、いつの時代も人間たるべき標準のように思います。周りも結局、そのような人を喜びます。
親ガチャ成功して、その上努力して今うまく行っているなら、そのように過去世もあった、来世もあるだろうと考えて、この一回分の人生をますます立派に生きるように励むとよいと思います。周りの目や明るいとか暗いなどという基準よりも、どのように生きれば徳を積んで心が成長するかという点を基準にすると、結婚や仕事などの転機も、さらに落ち着いて判断できると思います。
分かるー。
こんにちは。なんだか軽いタイトルにしてしまってごめんなさい。
私も坊さんという立場からか「人前での自分」と「本心・根っこ」は随分と違うなぁ、と感じます。
私、悩みました。「どっちが本物なの?」と。そして出たのは「どちらも本物。環境によって違う面が出ているだけ」という理解でした。
人はついつい、「自分だけの時」を本物、と思いがちです。けれど、人間は「人の間に生きる」もの。何とも縁付かないでいるなんて、ほんのひと時もないのです。
コップの例え、というのがあります。「人と縁付けば飲み物入れ、金魚と縁付けば住処、お金と縁付けば商品」みたいな。まぁ、これを考えると「最初の意図は何だったか?」とかに行きがちなので深掘りはしませんが、「どっちも本物」を飲み込めると、楽になることはおおいですよ。
「自分であることを放棄」よりも「自分にはいろんな面がある」の方が、自由に生きられると思いませんか?