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生きている実感がありません

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仕事をしても、友人と会っても、生きている実感がありません。
唯一生きていると感じるのは、自分の血を眺める時だけです。

いつかは死ぬと理解しています。
誰にも理解されず、愛されずに生きていく意味は何処にあるのでしょうか。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

おつらい、、、ことと思われているかどうかは別として、

生きている実感がないのは当然の事と存じます。

生きているのではないからです。

仏教ではそれを「無我」ともいいます。
無我が集まっていのちを作り上げています。

決して、自分のちからで生きているわけではない。
ですから、「生きている実感」などとは、本来申せないもの
だと小生は理解しています。

それでもいのちは、どこかあなたのように、
生きている実感というものを感じたいのかもしれません。

小生はあえて道徳を無視してお話致します。

小生は自傷行為を否定しません。
流す血があるなら、流したらいいと思います。

ただ、同じ「流す」ものでいいならば、
小生は「涙」を流したい。「おしっこ」でもいい。

痛みが欲しいならば、左足を右の太ももにのせ
右足を左の太ももにのせ、二時間ほど座ったら
自傷以上の痛みが味わえます。
小生であれば代用します。

血はどうももったいない気がするものでしてね。

あえてドン底に落ちてみるのもいい。
どうせお互い地獄に住んでいるのです。
地獄とは「もっとも自分の思い通りにならない、極苦の世界」
です。
小生も、思い通りにならんことばかりです。

ただ、小生は、「明日はきっとよくなる」
その祈りだけは、この地獄でも持ち得ています。

ここに、沢山の質問に対して、殆どに回答が寄せられるように
明日にはきっともっと回答が寄せられる。

あなたもそれを思って、ご質問されたはずです。
「明日はきっとよくなる」。どこか、あなたの意識の中に
その祈りがあったからです。

その祈りこそが、
あなたの足元を照らすひかりになる。
小生はそう思うのです。根拠なぞありません。
でも人間は「祈る」ことで、歩いてきたのです。
その歩みを、あなたも歩んでいるのです。

どうかあなたが安らかになりますよう、
切に、切に、祈ります。さちあれ。さちあれ。合掌

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自分を責めても解決にはならない

体の感覚で生きている実感を求めることを止めて、心で感じるモードに切り替えましょう。
あなたは普段から自分を傷つける劣等的な立場に身を置いているかもしれませんが、そもそも人間は優れているも劣っているもありません。
あるとすればそれは誰かから評価されたことに過ぎません。
その評価にいまだに騙されている自分がいるだけです。
坐禅は、坐る事を目的とするのではなく、自分を思いから自由にさせるものです。
思いから自由になればあなたは自分を責める必要が無くなります。
自分の尊厳を肯定できるようになります。
自分の存在を許せるようになれます。自分いじめ、他者への攻撃意識が止まります。
ありのままを認めるという事は、他人から評価させる以前の自分をありのままに認めるということですよ?こんな私なんか、こんな私など、、、と、自傷行為に走っておられること自体、すでに誰かからの評価を通して、自分を劣等的に評価しているのです。
どうぞ坐禅をしてみてください。
体と心の感覚が取り戻されると思います。
自分いじめを卒業し、物事を肯定的に認められるようになって下さい。
その為にも、否定も肯定も無い、良いも悪いも無い、自分や他人の評価以前の世界「法」に目覚めることです。「法」はあなたの周りにいつでもありますが、魚が水の中に合って水を知らないように、私たちも法の中に合って法に気づかないだけです。
それを気づかせてくれるのが仏道修行です。
坐禅や他の仏行をお勧めいたします。
機会に乏しければfacebook内でTokyo禅を探して頂きご参加(申請)ください。

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丹下 覚元(たんげ かくげん)
今月の提唱 「菩提心をおこす」 菩提心をおこすということは、たとえ...
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一緒に悩みましょう

自分の血を見ると、やっと生きている実感がわく、

痛かったですよね、辛いですよね、私も経験があります。

若かりし頃、大切な人を突然失い、騙され、絶望して、

でも、奇跡的なのかも知れませんが、まだ私には命があります。

たぬさんが素晴らしいのは、生きている事を感じ、やがてこの命に終わりが有る事を知っている事です。

ほとんどの人間が、そんな事に気が付きも、思いも寄せなく、ダラダラと、生きているのかもしれません。

たぬさんは、きっと感受性が強く、心が綺麗な方だと、文章から感じ取れます。

きちんと仕事もなさり、友人もいる、

きっと、分かりにくいですが、愛されています、少なからず理解もされていますよ。

意味の無い人生は、有りません、私もまだまだ分かりませんが、一緒に悩み考えていきましょうよ。

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長谷雄蓮華 (ラジ和尚)
ラジオ パーソナリティ 『 命の 相談会 』開催 愛知県愛西市...
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空と縁起と

たぬ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

生きている実感・・確かに私たちの一生など「夢幻の如く」と形容されますように、儚いものでございます。

問い「実母の死」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002972230.html

『・・私たちの現実の世界においては、そのものを永久永遠なるものとして成り立たしめている実体がどこにも見当たらないこと、そのものをそのものたらしめている自性がないことを、実体が無い、つまり、「空」と申しますが、実体が無いがゆえに、掴まえよう、捉えようとしても、結局、何も掴まえられない、捉えられないこと、これをまさに「まるで夢のようだ」として表すのであります。・・』

『・・夢は結局、幻でしかなく、またこの世の現実も「夢幻の如く」であることを理解することが、仏教においての「空」を理解する上でも大切なこととなりますので、この機会に少しだけでもお知り賜れましたらと存じております。・・』

既に星大晃様のご回答にもありますように、「無我」ということであり、独立自存にて実体として成立しているものは何も見当たりません。ですから確かに生きている実感が無いというのはある意味では正しくて当然のこととなります。

もちろん、たぬ様は確かに今、現実において生きています。しかし、そのありようは、様々な無数の因・縁(原因や条件)によりて支えられて、助けられて生かされてあるのであります。縁によりて成り立っている存在のありようを仏教では「縁起」と申します。この「縁起」なる中を生かされている自分のありようであれば、恐らくは実感できるのではないかとは存じます。

苦しい時や辛い時は、一人で抱え込まずに遠慮なく、周りの方々に頼り、助けを求めることです。そして、もしもたぬ様が誰かに助けを求められたならば、是非、できることで助けてあげれるようにしていくことも、この縁起なる世界で生きていく上で大切なことになります。

また、「生きる意味」に関しましては、下記各問いにてこれまでお答えさせて頂いておりますので、少しくご参照下さいませ。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/cat_318924.html

川口英俊 合掌

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質問者からのお礼

長谷様
優しいお言葉ありがとうございます。
人生の意味を見つける為に、もう少しもがいてみようと思います。
寂しさや痛みは所詮他人とは分かち合えないと決めつけていました。
ご回答いただき、ありがとうございます。

星様
自傷行為を肯定的に捉えていただきありがとうございます。
流す血があるうちは生きて行ける気がします。
ドン底まで落ちてみるのも良いですね(笑)
底から見る景色はきっと今まで見たどんな景色より美しいと思います。
一人で落ちるのが怖くて踏み出せなかった。
でも今は一人だからこそ、その景色を楽しめるのではないかと期待しています。
ご回答いただき、ありがとうございます。

丹下様
適切なアドバイスを頂きありがとうございます。
体と心の感覚を取り戻す為に、物事を肯定的に認められるよう
努力をしていきたいと思います。

川口様
親身なアドバイスを頂きありがとうございます。
縁によりて成り立っている存在を意識して、助けられて生かされている
自分のありようを再度考えてみたいと思います。
ご回答いただき、ありがとうございます。

「人生の生きがい・楽しみが欲しい」問答一覧

なにかに必死になりたい

はじめまして、礼と申します。 私は21歳から他人のお金に頼り暮らし、23歳で結婚してからは夫に頼りきりの生活です。 本当にぐーたらな人生ですが、 運が良く夫、子ども達、近所の方々、周りの皆さんに恵まれています。 関東から転勤で九州へきて2年たちましたが福岡でも恵まれた環境です。 現在子どもが2人おり 自分ができる育児と家事はなんとかやっていますが 漠然となにかに必死になりたい。と思うようになりました。 幼少期からとくにやりたいことがなく、習い事も親に言われたものをやり、学生生活では家に帰ってこないでバイトをしなさい。と言われたらバイトをして、高校卒業し介護で働きなさい。と家族に言われ介護で働きました。 両親は私が20歳の時家を出て行き私は祖父母と暮らすことになりましたが、その時初めて自らの意思で何をすればいいのか決められない自分に気付きました 30歳になったいまでも自分のことなのになにがしたいのか、なにが好きなのか、わかりません。 あの仕事をやりなさい。と言われたら 必死にできるのですが、自分の気持ちがないので自分が置いてけぼりになってる気がします。 なにかに必死になりたいと思ったのは我が子の生き様をみてなのです 上の子は6歳で男児としてうまれましたが、4歳から女の子だと訴え制服をスカートにかえ堂々と登園し、やりたいこと見つかったから習わせて!とピアノを習いはじめたり、周りから何を言われようと大好きなピンクの服をきて外出します。今も自分らしく生きており、不思議なくらい一生懸命生きる子どもです。 自らの意思をしっかり持っています。 専業主婦を下にみていません。 しかし、私も家事育児以外にももっとやれる。と思うのです。 本当にやりたいことはなんなのかそれが仕事になるのか、趣味になるのかわかりませんが、自分のやりたいことなりたい姿、好きなこと、見つけられる方法はあるのでしょうか? なんだか漠然としていて申し訳ございません。

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どうもこんにちは 僕は某私大の工学部の4回生です。最近、今通っている私大の大学院にそのまま進学することが決まりました。 以前は高校の時に第一志望だった国立大学の大学院を志望していました。ここには大学受験で失敗した落とし前をつけたいといった気持ちがありました。しかし、コロナ騒動でなんやかんやあってその国立大学院に出願できませんでした。 ただ4回生にもなると1,2回生の時より社会的,科学的視野が広くなり、今通っている私大の院からでも望む進路へは十分進めることがわかりました。さらに学歴に拘っていた以前の自分を克服したように感じ、むしろ僕にしては珍しく自信を持ちました。 前々から「〇〇大学の××研究室に行ってやる!」と友達に語っていたので多少の情けなさはありましたが、現在の研究(私大)と志望していた研究(国立)が結構似てたためこの際気にしないことにしました。 しかし進学決定後、謎の不快感が現れました。 その気持ちは 「小学校の時に学校の敷地内を歩き回って全ての階,部屋,場所に行き尽くした時の気持ち」 や 「アドベンチャーゲームを遊んでいて全ての扉や宝箱を開け尽くした時の気持ち」 などに似ています。少しズレていますががっかりという言葉が近いでしょうか。この気持ちの名前を知らないので、ここで仮にこれを「有限視界感」とします。 僕は中学から今まで高校,大学受験を一般受験でなんとか乗り越えましたが、その原動力が未来の生活への期待やワクワク感のような気持ちでした。(ポンコツの癖に)進路が決まっていない不安感や受かるかどうかわからないペーパー試験に挑む緊張感を苦しみながらも心のどこかで楽しんでいたのかもしれません。これを同様に「無限視界感」とします。 僕の行動力の源はこの無限視界感であるのだと思います。今後直近の2年間通う物理的な場所が決定している事実が有限視界感を引き起こし、研究活動や課題に前向きに取り組めなくなりました。以前より怠惰さに磨きがかかり全体的に人生が楽しくなくなりました。これらは自信や目標の有無とは関連の少ない感情かもしれません。 物理的な進路が決まっていても無限視界感を取り戻す方法が知りたいです。そしてもしご存知でしたら無限視界感と有限視界感の正式な(?)名前や仏教用語などを教えてください。ここまで読んでいただきありがとうございましたm(__)m

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人生を楽しく過ごすコツ

実家暮らし、22歳の女です。 入社した会社を辞めてしまいました。 高熱が1ヶ月ほど続き、白血球が通常の半数以下に減少した結果休職せざるを得なくなり、発熱は止まったのですが体力が回復する事はなく結果的に退職となりました。 多分ストレスにより生活習慣が悪化して発熱したと思うのですが、月一で病院に通っている今でも原因は未だに不明です。 本当は就職先で三年ほど働きお金を貯めて、行きたい大学に行けなかった分海外へ留学して自分のしたい事を勉強しようと計画を立てていました。 しかし会社を辞めてしまった今、なけなしの貯金を家へ入れながらバイトを探している最中です。 元来ネガティヴな人間ではないので、自分の今の状況に対して何の感情も無かったのですが、最近になって全てがどうでも良くなってしまいました。 前までは、したい事がたくさんありました。 でも今は何をしても意味がないなと思ってしまいます。 どうしてか分からないのですが、私は小さい頃から人を恋愛的に好きになることに対して人一倍時間がかかるようで、純粋にブスなのでモテないのもあると思いますが、年齢=彼氏なし歴となっています。自分でも生涯結婚はしないのだろうと予測しております。 孤独死まっしぐらなのでなるべく早く人生を離脱したいのですが、どうしても家族の事が心配です。 特に母親に関してです。 私の家は母子家庭でわりと貧乏らしく、小さい頃から母親が汗水垂らして働いてくれました。母は500円の服を買うことにも躊躇するような人です。 何十年も前の古い服を着る母を見る度に、私は不甲斐ない気持ちでいっぱいになります。 私が会社を辞めずにいたらもう少し家にお金を入れて、尚且つ母にお小遣いもあげれたのに。と思ってしまいます。 母が楽して生活できるようになるまで死ねません。なので楽しく生きるコツなどがあればご教授願いたいです。 今は周りの事に対して興味が沸かない状態ですが、少しでも毎日が楽しいと思えるようになればもう少し頑張れる気がします。 話が二転、三転して読みづらい文だったと思います。すみません。 長文失礼いたしました。

有り難し有り難し 9
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楽しさを見い出せません。

中学生になった頃から楽しさを見いだせなくなりました。しかし、それには特に理由がないのです。 友達と遊んでいても、親と食事をしていても、ゲームや本、アウトドアに至っても、試して見たけれど、周りが楽しいと感じる理由が分かりません。 小学生の頃の恐らく楽しかったであろう記憶を辿っても、何がどうしてどうやって面白かったかのかが分かりません。 別に面白いを追求している訳ではなく、ただ面白いと感じたいだけなのに、楽しみを見い出せません。 温度差を持って周りと接している自覚もありませんし、どちらかと言うと楽しいと感じたいとさえ思っています。 かと言って、無理やり楽しもうとしている訳でもありません。 こんな事を親に相談するも『中二病』の一言で片付けられてしまいました。 楽しみを見いだせないままかなりたった今では、周りをよく客観視してしまうようになりました。 友達に趣味を合わせ、うんうんと頷く友人。 カースト上位の女子によせた格好をする女子。 『ほっとけ』という話になるのでしょうが、周りと合わせて楽しいの?意味があるの?と思ってしまいます。 結論から言うと自分は周りに合わせても合わさなくても楽しいとという感情や他の何も感じられく、退屈でした。 こんな退屈が続くなら自分の前でちょっとした非日常が起こって『自分、死なないかな』なんて思ってしまいます。 それからという物、自分はあることに対してだけ、興味を抱くようになりました。 それは死でした。 死した後にはどうなるのだろう。 そんな疑問が四六時中頭の中をまわります。 が、人を殺める気も無ければ自殺する気もありません。 自分を殺せばそれは非日常では無くなってしまいますので……。 でも、自殺するなら高い所から落ちたいです。 親には『下にいる人にぶつかったら危ない』と言われたのでするつもりなんてありませんが。 こんな風に感じてしまうのは学生特有の中二病なのでしょうか?

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