生きている実感がありません
仕事をしても、友人と会っても、生きている実感がありません。
唯一生きていると感じるのは、自分の血を眺める時だけです。
いつかは死ぬと理解しています。
誰にも理解されず、愛されずに生きていく意味は何処にあるのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
おつらい、、、ことと思われているかどうかは別として、
生きている実感がないのは当然の事と存じます。
生きているのではないからです。
仏教ではそれを「無我」ともいいます。
無我が集まっていのちを作り上げています。
決して、自分のちからで生きているわけではない。
ですから、「生きている実感」などとは、本来申せないもの
だと小生は理解しています。
それでもいのちは、どこかあなたのように、
生きている実感というものを感じたいのかもしれません。
小生はあえて道徳を無視してお話致します。
小生は自傷行為を否定しません。
流す血があるなら、流したらいいと思います。
ただ、同じ「流す」ものでいいならば、
小生は「涙」を流したい。「おしっこ」でもいい。
痛みが欲しいならば、左足を右の太ももにのせ
右足を左の太ももにのせ、二時間ほど座ったら
自傷以上の痛みが味わえます。
小生であれば代用します。
血はどうももったいない気がするものでしてね。
あえてドン底に落ちてみるのもいい。
どうせお互い地獄に住んでいるのです。
地獄とは「もっとも自分の思い通りにならない、極苦の世界」
です。
小生も、思い通りにならんことばかりです。
ただ、小生は、「明日はきっとよくなる」
その祈りだけは、この地獄でも持ち得ています。
ここに、沢山の質問に対して、殆どに回答が寄せられるように
明日にはきっともっと回答が寄せられる。
あなたもそれを思って、ご質問されたはずです。
「明日はきっとよくなる」。どこか、あなたの意識の中に
その祈りがあったからです。
その祈りこそが、
あなたの足元を照らすひかりになる。
小生はそう思うのです。根拠なぞありません。
でも人間は「祈る」ことで、歩いてきたのです。
その歩みを、あなたも歩んでいるのです。
どうかあなたが安らかになりますよう、
切に、切に、祈ります。さちあれ。さちあれ。合掌
自分を責めても解決にはならない
体の感覚で生きている実感を求めることを止めて、心で感じるモードに切り替えましょう。
あなたは普段から自分を傷つける劣等的な立場に身を置いているかもしれませんが、そもそも人間は優れているも劣っているもありません。
あるとすればそれは誰かから評価されたことに過ぎません。
その評価にいまだに騙されている自分がいるだけです。
坐禅は、坐る事を目的とするのではなく、自分を思いから自由にさせるものです。
思いから自由になればあなたは自分を責める必要が無くなります。
自分の尊厳を肯定できるようになります。
自分の存在を許せるようになれます。自分いじめ、他者への攻撃意識が止まります。
ありのままを認めるという事は、他人から評価させる以前の自分をありのままに認めるということですよ?こんな私なんか、こんな私など、、、と、自傷行為に走っておられること自体、すでに誰かからの評価を通して、自分を劣等的に評価しているのです。
どうぞ坐禅をしてみてください。
体と心の感覚が取り戻されると思います。
自分いじめを卒業し、物事を肯定的に認められるようになって下さい。
その為にも、否定も肯定も無い、良いも悪いも無い、自分や他人の評価以前の世界「法」に目覚めることです。「法」はあなたの周りにいつでもありますが、魚が水の中に合って水を知らないように、私たちも法の中に合って法に気づかないだけです。
それを気づかせてくれるのが仏道修行です。
坐禅や他の仏行をお勧めいたします。
機会に乏しければfacebook内でTokyo禅を探して頂きご参加(申請)ください。
一緒に悩みましょう
自分の血を見ると、やっと生きている実感がわく、
痛かったですよね、辛いですよね、私も経験があります。
若かりし頃、大切な人を突然失い、騙され、絶望して、
でも、奇跡的なのかも知れませんが、まだ私には命があります。
たぬさんが素晴らしいのは、生きている事を感じ、やがてこの命に終わりが有る事を知っている事です。
ほとんどの人間が、そんな事に気が付きも、思いも寄せなく、ダラダラと、生きているのかもしれません。
たぬさんは、きっと感受性が強く、心が綺麗な方だと、文章から感じ取れます。
きちんと仕事もなさり、友人もいる、
きっと、分かりにくいですが、愛されています、少なからず理解もされていますよ。
意味の無い人生は、有りません、私もまだまだ分かりませんが、一緒に悩み考えていきましょうよ。
空と縁起と
たぬ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
生きている実感・・確かに私たちの一生など「夢幻の如く」と形容されますように、儚いものでございます。
問い「実母の死」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002972230.html
『・・私たちの現実の世界においては、そのものを永久永遠なるものとして成り立たしめている実体がどこにも見当たらないこと、そのものをそのものたらしめている自性がないことを、実体が無い、つまり、「空」と申しますが、実体が無いがゆえに、掴まえよう、捉えようとしても、結局、何も掴まえられない、捉えられないこと、これをまさに「まるで夢のようだ」として表すのであります。・・』
『・・夢は結局、幻でしかなく、またこの世の現実も「夢幻の如く」であることを理解することが、仏教においての「空」を理解する上でも大切なこととなりますので、この機会に少しだけでもお知り賜れましたらと存じております。・・』
既に星大晃様のご回答にもありますように、「無我」ということであり、独立自存にて実体として成立しているものは何も見当たりません。ですから確かに生きている実感が無いというのはある意味では正しくて当然のこととなります。
もちろん、たぬ様は確かに今、現実において生きています。しかし、そのありようは、様々な無数の因・縁(原因や条件)によりて支えられて、助けられて生かされてあるのであります。縁によりて成り立っている存在のありようを仏教では「縁起」と申します。この「縁起」なる中を生かされている自分のありようであれば、恐らくは実感できるのではないかとは存じます。
苦しい時や辛い時は、一人で抱え込まずに遠慮なく、周りの方々に頼り、助けを求めることです。そして、もしもたぬ様が誰かに助けを求められたならば、是非、できることで助けてあげれるようにしていくことも、この縁起なる世界で生きていく上で大切なことになります。
また、「生きる意味」に関しましては、下記各問いにてこれまでお答えさせて頂いておりますので、少しくご参照下さいませ。
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/cat_318924.html
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
長谷様
優しいお言葉ありがとうございます。
人生の意味を見つける為に、もう少しもがいてみようと思います。
寂しさや痛みは所詮他人とは分かち合えないと決めつけていました。
ご回答いただき、ありがとうございます。
星様
自傷行為を肯定的に捉えていただきありがとうございます。
流す血があるうちは生きて行ける気がします。
ドン底まで落ちてみるのも良いですね(笑)
底から見る景色はきっと今まで見たどんな景色より美しいと思います。
一人で落ちるのが怖くて踏み出せなかった。
でも今は一人だからこそ、その景色を楽しめるのではないかと期待しています。
ご回答いただき、ありがとうございます。
丹下様
適切なアドバイスを頂きありがとうございます。
体と心の感覚を取り戻す為に、物事を肯定的に認められるよう
努力をしていきたいと思います。
川口様
親身なアドバイスを頂きありがとうございます。
縁によりて成り立っている存在を意識して、助けられて生かされている
自分のありようを再度考えてみたいと思います。
ご回答いただき、ありがとうございます。