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母の暴言で死にたくなります。

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私の母は、気に食わないことがあると暴言を吐きまくり、自分の気がおさまるまで続きます。もう小さい頃からそんな母と一緒に生きてきました。私が要領が悪くいつも母の変なスイッチを押してしまいます。そして母と母の言いなりの妹にひたすら言葉で責められ続け、毎回生きることが辛くしんどくなってしまいます。
基本的に自分は自己肯定感が低く、自分なんていつ死んでもいいと思っているし、愛されている実感がありません。唯一息子だけは頼ってくれていると思っていますが。
毎回息子のためにギリギリで踏ん張っていましたがもうそろそろ限界になってしまいました。
私は結婚して今は母とは別に暮らしていますが、私自身、他人を全く信用することができなくて悩みなども夫に打ち明けられず。夫はそんな私が嫌で浮気ばかりしています。
なんかもう、生きることにこだわるのがバカバカしくなってきました。息子も悲しむだろうけどすぐに立ち直ってくれるでしょう。
もう全てが虚しいです。自分という害悪が生きているだけで吐き気がします。

2022年10月2日 13:31

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

完全に独り言的な暴言と認じて正面からとりあわない

そもそも世界中のあらゆる発言はひとりごとなのです。
そうではないと思われても「そう」思うことであなたの悩みは軽減されます。
仮に「誰か」に対して投げかけた言葉であったとしてもそれもその人がその人の脳、口を通して発声された「壮大なひとりごと」なのです。
q( ˘ω˘ )pもし、これに異論のある人の話も聞いてはいけません。
それもその人独自の独り言だからです。
暗殺された安倍首相の国葬も実際は賛成派が大半なのに少数派の反対派の声があたかも多かったように報じられましたが、それも壮大なひとりごと。メディアは各局印象操作のウソ報道で「メディアが勝手に独り言を言った」だけ。それに対して国民が公共の電波で騙されているという図式です。
ですが、本質は背後にスポンサーや組織を牛耳る人間にこき使われている企業がこういうウソを流したいという壮大な独り言なのです。業界の闇、裏側を知らないと公共の電波を用いた独り言を真実だと思いこまされてしまいます。
もちろん、私のここでの回答も独り言です。
もちろん、あなたに向けて発信した情報ではありますが壮大なワタクシめの独り言でございます。
あなたがこれを読んで頭の中で思うことも誰にも聞こえない脳内の独り言です。
ツイッターも基本は独り言。
世界中の人が独り言、つぶやきを各自で勝手に展開しているだけです。
その他人の独り言にいちいち絡んでくる人や炎上屋も多いですが、所詮は人の独り言です。

さて、さんざん独り言独り言と言ってまいりましたが、お母様のあなたに対する罵詈雑言も同じなのです。🐴🐔
お母さんが勝手に思ったことを音声で発信されているだけなのです。
あなたがそれを真に受けなくても良いのです。
もし、お母さんがもっと高齢になられて認知症になられたと致しましょう。
そこで、思ったことをご本人様も自制も聞かずに発言されたとしても、誰に向けて言われたものでもないはずではないでしょうか。
介護をされる方もその言葉を一言一言真に受けていては身が持ちません。
どこぞの山奥の洞窟に書かれた誰に向けられたわけでもない言葉や絵は誰に向けられた言葉でもないのですからあなたが取り合う要はありません。同じようにお母様もお母様の思ったことが描かれて発せられているだけなのです。
それでも悪言を功徳へと転ずる心が菩提心です。
( ゚Д゚)┳*-----┌┴○  マトリックス!

2022年10月2日 15:13
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有り難し
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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます💦
なるべく独り言だと思い向き合うようにします。

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