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老子と仏教の関係について

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皆様、いつもお世話になっております。僕は今「老子」についての本を読んでいます。そこで感じたのが、老子の思想は仏教の教えに通じるものがあるのではないか?ということです。例えば老子の言う無為自然という考え方は、仏教で言う空の考え方に近いものがあるのでは?と個人的に考えています。お坊さんの意見を教えて頂けますか?

2022年10月11日 16:11

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

真理と主義思想の違い

真理と主義思想の違いはなにか。
真理というものは「人が考えたもの」ではないのです。
一方、主義思想というものは「人間が考え出したもの」と言えます。
空というのは法相=法の様相であり、この世の法則。人間の法則。人間の本来の様相。
自己の真相がもともとそうなっているという「真理」を説いているのです。
たとえ、神道、キリスト教、イスラム教の人であっても、その道理が通ずるものが真理というものなのです。
「空」というものを「空の思想」と解釈する人たちも多いですが、それは誤りで「思想」ではありません。思想だと思ったのは後世の学者さんたちが分類上、思想としてとらえたのでしょうが、空とは思想ではありません。
主義思想というものは、一部の人たちにしか通用しないものです。
まず「真理とは思想ではない。主義思想ではない。」ということを弁えておきましょう。☚ここ大事です。
つまり真理というのは誰にとっても真実であるということなのです。
誰にとっても通じる共通する内容でなければ真理とは言えません。
この世、地球上のすべてに共通する「絶対的な真実」を真理というのです。
ただし、カルト系新興宗教の言うところの真理というモノは実は真理ではなく主義思想であるというものが多いように感じます。なぜならば、それは人が考え出したものだからです。教組のエゴ、教組の思想、教組の独自の見解を信者に対して「これがこの世の真理であるゾ」と説いて思い込ませようとしているものはその教団の中だけでは通じるものであったとしても全世界の人たちに対して通ずるものではないので、それは主義思想なのです。教団の信者だけに通ずるものは主義思想であり、偏った教え、偏狭思想というべきものであって教理ということが言えたとしても「真理」とは言うことはできないものではないのです。

老子の無為自然という教えは、解釈によって捉え方も異なるでしょうが、仏教的な教えに「近い」ということは言えると思いますが、冒頭申しあげましたように同じではありません。
空ということが知識や理解や解釈ではなく、体得・会得されると「あ!本当だ。違う。」とわかるようになります。
自然に任せて無為に生きるということと「わが身の作用が何もせずとも元々解脱され永遠に救われ続けている」ということとは、近いようで違う。ここがわかる人は稀ですが、違いの分かる方になってください。

2022年10月11日 17:08
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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下 覚元様、ご回答ありがとうございます。非常に参考になりました。ただご回答を読んで少し気になるところがありました。本来お礼の欄に書くべきことではありませんし、見当違いだったら申し訳ありません。

丹下様は仏教の境地にのみ真理に至る道があるとお考えなのでしょうか?もしそうであるならばそれは危険な考え方ではないですか?自分の信じているものだけが正しいと主張することは選民思想であり、世界の分断を招いてしまうことに繋がるのではないでしょうか。明治時代に真宗大谷派は「一殺多生」という考えを持ち出し戦争に加担しました。もちろん当時の世界情勢は今とは違いましたし、一概にお坊さんが悪いと言うつもりはありません。ただ、もし当時のお坊さんが少しでも自分たちが絶対に正しいという前提を疑っていたら、自分たちが信じているものが間違っているかもしれないと考えていたら、あの悲劇は起きなかったのではないか、そう考えてしまうのです。つまり僕が言いたいのは、宗教的指導者はその影響力があるからこそ、自分たちの教義に対して自覚的に、省みる必要があるのではないか?ということです。

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