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御薬師様とアレルギーについて

回答数回答 1
有り難し有り難し 8

こんばんは。お坊様に質問があります。

先週の金曜日に喉の調子が悪かったので、お医者様に診て貰ったらアレルギーの影響だとおっしゃってました。

なので、御薬師様に、アレルギーの症状が無くなる様にとお祈りしたいのですが、問題はないでしょうか?

2022年10月17日 19:10

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

問題ありません。

ネコアレルギー、ブタクサアレルギー、カルト、悪行、非人道アレルギーの丹下THEアレル元(仮名)と申します。
日々、SNSページが怖いオジ様方でアレております。(笑)
私もアレルギーなのか風邪なのかわかりませんが咳と熱の症状になやまされておりました。浅田飴咳止め、なかなかいいです。今も自身の内なる薬師如来さまにお願いしてアレルギーを鎮めて頂こうと、お願いしたばかりです。▼薬師とは内なる救い、癒し、法薬のはたらき。その力を発動するためにも祈りは大事です。外に求めても良いですし、内なる薬師様にお願いするのでもよいでしょう。
小さい微生物も大きな生命体も「お静まり頂く」ためにはそれぞれの方法があるようです。
アレルギー反応というものはそのものを体の中に入れないよう、あるいは入ってきてきたものを滅そうとしたり、反応で炎症などの症状がおこることでしょうから、アレルギーという言葉の奥にある、体の働きにも目を向けて体からその症状が起こらないように工夫をすることも大切ですね。
寝る前にいざという時のために漬けておいたにんにく菩薩様の功徳により大分回復いたしました。
(おすすめ:小さめのニンニクや訳ありニンニクを瓶で醤油OR黒酢に漬けておくと最強の風邪薬・回復薬になります。なければスーパーのニンニク漬け大量摂取♡)
最近はブタクサのように戦後外国から入ってきた外来系種子がものすごい勢いで繁殖して当時、日本にはなかったものによって、人間の体がビックリ反応をおこしているそうです。
自然界にも相性や恒常性があるということでしょう。日本は日本の神様で調和してくれていることによって恵みに授かれるというところがあるのです。世間でよく言われる「多様性」「アンチ不寛容(なんにでも寛容であれ)」とは❝何でも受け入れなさい❞みたいな所がありますが、仏教とはなんでもかんでもOKという教えではありません。現実にアレルギーがあるということは、自分の体はそれが受け入れられないという大真実なのです。「あるがままに」ということも行き過ぎると、侵略的な外来生物にとって便利な論法になってしまいます。
よって、可哀そうではありますが、市町村から指定されている外来種は駆除することも「私の体にとってのあるがままに」という視点からも大事な対処法だと思い、庭に生えたブタクサ、引っこ抜こうとしたらセイタカアワダチソウでした。(笑)

2022年10月20日 9:54
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元様、お返事ありがとうございます。
のんびりやっていきます!

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