hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

奉仕活動で解脱を目指すこと

回答数回答 2
有り難し有り難し 32

私はバガヴァッド・ギーターというインドの聖典が大好きで、その中に「奉仕活動によって解脱ができる。それは行よりも有効な手段」という記述があります。私の夢は解脱とみんなが幸せな世界であり、そのためにボランティア、人助け、世界のためになる選択肢を選ぶことが大好きです。

しかし、達磨大師はこう言われました。功徳(つまり私でいう、解脱を目的としていること)のために寺を建築したり写経したりしても新たな煩悩を生むだけであり無功徳であると。これは、解脱という利己的な目的を持って人を助けたり救ったところで自分は何も得られるものがない、ということなのでしょうか。

奉仕活動によって解脱を目指すというのはシク教やヒンドゥー教的な考え方のはずで、確かに私は若い頃にいっぱい罪を犯したためその分、誰かを助けたり誰かの役に立ったりよりよい世界を作るために努力することは損得を抜きとして心から大好きです。しかし、その先で自分も解脱したいという利己的な抱きがあるのもまた事実です。

私のしていることは、解脱を目指す上で無駄なのでしょうか? 私の行いで誰かが喜びを味わったり救われたりしているので、それは決して無駄なことではないのは確かなはずです。しかし、やはり達磨大師のおっしゃられたことにも一理あるので、そこがずっと引っかかっているのです。例え自分に得が無くとも、奉仕活動自体は好きなのでそのスタンスは崩さないつもりです。

私はちゃんと正しい方向へ進めているでしょうか? よろしくお願いいたします

2022年12月20日 12:33

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたもまた、仏道をしっかりと歩まれていますよ。

プロフィールや前回の質問も読ませてもらいました。
誰かのために、周りの幸せのために、ボランティアをする。それが、私がやってあげたんだ!私のおかげだ!と慢心が起きれば、煩悩となり、愚かなことであるという教えでしょう。
あなたが、私心を捨てて尽くす、奉仕の精神を大切になさっていることは、伝わってきますよ。解脱のためが目的でしょうが、ボランティアなさる時には、誰かの力になりたい、より良い世界にとの願いがあるのですよね。

マズローという心理学者が、人間には自己実現のために5つの欲求があると。ですが実は、その上に6つ目の欲求があると説いています。それは「自己超越」です。

自分のために生きているのが人間であり、それは当然のことでもありますが。欲求が満たされていく先に、自分ではなく、誰かのためにと、それが自分の幸せに繋がるのだと。そんな自己超越の領域に喜びや真の幸せを感じられる。ボランティアの精神と似ていますよね。あなたにとっては「解脱」もまた超越。だからこそ、大事にしたいと思えたり、生きる支えや励みになっておられるのではありませんか。

私もボランティア活動を続けていますが、仏教の教えに出遇ったから、誰かを想える私になれたというのがきっかけかもしれません。
あなたも、そうなのではないでしょうか。

あなたもまた、仏道をしっかりと歩まれていますよ。

2022年12月21日 1:13
{{count}}
有り難し
おきもち


はじめまして(*^^*) 中田みえです。 教善寺 住職として、母親として...
このお坊さんを応援する

功徳について

聖火さま

達磨大師の「無功徳」は、三輪清浄、三輪空寂を示されるところではありますが、「功徳はいらない」、「修行はいらない」と言われているわけではないことに注意が必要となります。

もちろん、私たち凡夫は、最初から全くの私心無しで、何らの見返りの期待なしで、仏教や他宗教における功徳、善行をできるものではありません。無明、煩悩があって当たり前なのですから。浄土真宗的に申せば、それはやはり「雑善」でしかないと言えるでしょう。

しかし、実際にその行いにより、相手に安心や平安、安楽をもたらしてあげれたのであれば、こちら側の問題がどうであろうとも、善行としての結果が生じており、善い功徳になるものであると考えます。

いずれにせよ、仏教では自利利他のバランスの取れた修行を勧めることになります。

六波羅蜜では、布施・持戒が、利他。忍辱・精進が、自利。禅定・智慧が、解脱となるのであります。そこには自分の解脱のための利他と自利ということも当然に含まれてあります。何より真に利他を行い、衆生を救済できる存在は仏陀・如来であり、仏陀・如来となるためにも必ず解脱がまず必要となるのであります。

仏教は、奉仕活動のみで解脱ができるとするわけではありませんが、功徳行は絶対に欠かせないもので、しっかりと努めて参りたいものでございます。

合掌

2022年12月21日 11:34
{{count}}
有り難し
おきもち


三休さん
二休みも三休みもしてしまう怠け者。三休です。 最新の仏教論考はこちら...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

ありがとうございます。勇気が湧きました。これからも多くの人に喜びを与えたいです!

「仏教全般」問答一覧

チベットのダライ・ラマ法王の話は本当?

今まで来世・霊魂・輪廻転生について質問しました ご丁寧な回答ありがとうございます 回答を頂いた内容だけでなく、他の質問に対する回答も読むようにしております。 そこで新たに知りたいことが出てきたので 日本になじみのないチベット仏教について質問します。 【質問 その1】 チベットのダライ・ラマ法王とは日本の僧侶から見てどんな立場の方なのでしょうか? ①日本に存在するカトリック教会から見たローマ法王のように頂点に立つ人物である認識ですか? ②日本の仏教界から疎遠にみられているのでしょうか? ③昔の院政をしていた皇族(白河法皇など)のように高貴な身分の人と言う認識でしょうか? (②ならば キリスト教における カトリックとプロテスタントの関係、イスラム教のスンニ派とシーア派の関係のようなもの) (③ならば人の道を説く宗教家と言うより権謀術数を駆使した政治家) 【質問 その2】 チベットの ダライ・ラマで検索すると 以下のような話が出てきました https://diamond.jp/articles/-/34724?page=2 上記サイトから転載  輪廻転生、前世の存在については、現在まで多数の文献等に報告されています。  また、チベットのダライ・ラマ法王は何度も転生を繰り返しているとされ、その位の継承は、代々転生者(生まれ変わり)を探し出すことでなされています。法王が亡くなると、次に生まれ変わってくる方角などが予言され、数年後、それにあてはまる幼児を探し出すと、先代の遺品を選ばせたり、先代の身近にいた人物を見分けさせるなどして前世の記憶を試すのです。現法王も幼少時に、先代ダライ・ラマ13世の愛用していた数珠を見分け、側近の名を迷わず言い当てたと言います。 この話は信憑性の高い話なのでしょうか? 【質問 その3】  上のURLは 東大病院で責任のある地位にいた医師が書いたものです。 ここでは 前世の記憶がある人の話が出たり、 霊媒師を通して自分の亡母と会話をした話が出ています  Yahoo 知恵袋ではこのようなQ&Aもありました https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14270511814 これを読んで お坊様はどのような感想を持たれますでしょうか?

有り難し有り難し 11
回答数回答 1

離檀について

私の実家の菩提寺との関係にについてご相談です。 昨年末に実父が亡くなり葬儀を行いましたが、お布施の金額や住職の振る舞いが納得できるものではなく、離檀を考えております。 お布施の金額についてお伺いをたてたところ、60万円。お車代2万円×2人分を請求されました。お布施とは、そもそもお気持ちであり、金額を提示されるものなのでしょうか、また葬儀は30人ほどの小規模のものでしたが、脇導師もいらっしゃいました。菩提寺ではない近隣の寺からいらしたようです。2人必要なのでしょか? 戒名は一番下のランクで葬儀社の方も驚いていました。実家周辺の同じ宗派の寺の中でもかなり高額とのことです。 今までにも、年期法要など毎回、かなり多くのお布施を要求されています。お布施をお渡ししたときに私たちの目の前で、お布施の中身を数え確かめたこともありました。 住職として信頼できないこと、菩提寺には墓がないこと(自宅近くの公共の墓地に墓はあります)今後、これからもかかるであろう高額な費用を捻出することも難しいので離檀を考えています。 離檀の際にお気持ちはお支払いしますが、離檀料として30万円もの金額を支払う必要はありますか? (先日、49日の相談をした際に〝今後のお付き合〟と書かれた用紙を渡され)盆暮れの付け届け○〇円、年季法要お布施〇〇円 等と書かれている用紙に離檀料25~30万円との記載がありました。 嫁ぎ先もたまたま同じ宗派ですが、もっとこちらの話に耳を傾けてくださいます。地域が違えば色々と違ってくるとは思うのですが、どうなのでしょうか

有り難し有り難し 33
回答数回答 3

成長し苦しみを滅することができるのか

仏教の本を読んでいたら次のような一節がありました。 若い人たちに授戒して騒ぎになり、授戒した僧を叱るお釈迦様の言葉だったと思います。 “二十歳に満たないものは、暑さ、寒さ、飢え、渇き、虫刺されと痛み、風と太陽、地を這う動物との接触、厳しくそっけない言葉に耐えられない。彼は、死に至るまでのあらゆる身体的不快や苦痛を、我慢できない。だが、二十歳になればそれができる。このことは、いまだ我々に信頼を寄せていない人々に信頼を抱かせることも、すでに信頼を寄せている人々の信頼を強めることもできない” 最後の一文はどういう意味でしょうか?本筋と異なりますが、もしよろしければ、あわせてご教示いただければ幸いです。 私は二十歳を超えていますが、これらのことに耐えることができません。本当に毎日つらくてたまらなく感じます。さらに年をとるとますますつらくなるのかと思うと、怖いです。 "二十歳になればそれができる"、とありますが、大抵の人は耐えられるのでしょうか。私は人生で、努力をしてこなかったから、苦しいのでしょうか?成長し損ねたのでしょうか?40になって今からどうしていけばいいのかと思います。 苦しい状態がずっと続いています。 お言葉をいただければ、幸いです。

有り難し有り難し 8
回答数回答 1

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ