奉仕活動で解脱を目指すこと
私はバガヴァッド・ギーターというインドの聖典が大好きで、その中に「奉仕活動によって解脱ができる。それは行よりも有効な手段」という記述があります。私の夢は解脱とみんなが幸せな世界であり、そのためにボランティア、人助け、世界のためになる選択肢を選ぶことが大好きです。
しかし、達磨大師はこう言われました。功徳(つまり私でいう、解脱を目的としていること)のために寺を建築したり写経したりしても新たな煩悩を生むだけであり無功徳であると。これは、解脱という利己的な目的を持って人を助けたり救ったところで自分は何も得られるものがない、ということなのでしょうか。
奉仕活動によって解脱を目指すというのはシク教やヒンドゥー教的な考え方のはずで、確かに私は若い頃にいっぱい罪を犯したためその分、誰かを助けたり誰かの役に立ったりよりよい世界を作るために努力することは損得を抜きとして心から大好きです。しかし、その先で自分も解脱したいという利己的な抱きがあるのもまた事実です。
私のしていることは、解脱を目指す上で無駄なのでしょうか? 私の行いで誰かが喜びを味わったり救われたりしているので、それは決して無駄なことではないのは確かなはずです。しかし、やはり達磨大師のおっしゃられたことにも一理あるので、そこがずっと引っかかっているのです。例え自分に得が無くとも、奉仕活動自体は好きなのでそのスタンスは崩さないつもりです。
私はちゃんと正しい方向へ進めているでしょうか? よろしくお願いいたします
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あなたもまた、仏道をしっかりと歩まれていますよ。
プロフィールや前回の質問も読ませてもらいました。
誰かのために、周りの幸せのために、ボランティアをする。それが、私がやってあげたんだ!私のおかげだ!と慢心が起きれば、煩悩となり、愚かなことであるという教えでしょう。
あなたが、私心を捨てて尽くす、奉仕の精神を大切になさっていることは、伝わってきますよ。解脱のためが目的でしょうが、ボランティアなさる時には、誰かの力になりたい、より良い世界にとの願いがあるのですよね。
マズローという心理学者が、人間には自己実現のために5つの欲求があると。ですが実は、その上に6つ目の欲求があると説いています。それは「自己超越」です。
自分のために生きているのが人間であり、それは当然のことでもありますが。欲求が満たされていく先に、自分ではなく、誰かのためにと、それが自分の幸せに繋がるのだと。そんな自己超越の領域に喜びや真の幸せを感じられる。ボランティアの精神と似ていますよね。あなたにとっては「解脱」もまた超越。だからこそ、大事にしたいと思えたり、生きる支えや励みになっておられるのではありませんか。
私もボランティア活動を続けていますが、仏教の教えに出遇ったから、誰かを想える私になれたというのがきっかけかもしれません。
あなたも、そうなのではないでしょうか。
あなたもまた、仏道をしっかりと歩まれていますよ。
功徳について
聖火さま
達磨大師の「無功徳」は、三輪清浄、三輪空寂を示されるところではありますが、「功徳はいらない」、「修行はいらない」と言われているわけではないことに注意が必要となります。
もちろん、私たち凡夫は、最初から全くの私心無しで、何らの見返りの期待なしで、仏教や他宗教における功徳、善行をできるものではありません。無明、煩悩があって当たり前なのですから。浄土真宗的に申せば、それはやはり「雑善」でしかないと言えるでしょう。
しかし、実際にその行いにより、相手に安心や平安、安楽をもたらしてあげれたのであれば、こちら側の問題がどうであろうとも、善行としての結果が生じており、善い功徳になるものであると考えます。
いずれにせよ、仏教では自利利他のバランスの取れた修行を勧めることになります。
六波羅蜜では、布施・持戒が、利他。忍辱・精進が、自利。禅定・智慧が、解脱となるのであります。そこには自分の解脱のための利他と自利ということも当然に含まれてあります。何より真に利他を行い、衆生を救済できる存在は仏陀・如来であり、仏陀・如来となるためにも必ず解脱がまず必要となるのであります。
仏教は、奉仕活動のみで解脱ができるとするわけではありませんが、功徳行は絶対に欠かせないもので、しっかりと努めて参りたいものでございます。
合掌
質問者からのお礼
ありがとうございます。勇気が湧きました。これからも多くの人に喜びを与えたいです!