心は 体のどこにある?
息子からの質問でした
『心は体のどこにあるか知ってる?』
『僕知ってる』
心臓か? 『違う』
お尻か? 『違う(笑)』
息子『大脳なんだって!』
え?そうなん?ん〜
私なんか違うわぁ…
心は体の真ん中にハト時計みたいな扉の中に
米粒くらいの人がおって(笑)
それが大きくなっあり小さくなったりしとる。。
それがお母さんの心な気がする(^^)
息子には笑われましたが楽しい時間でした。
お坊さんの心は体のどこにありますか?(^^)
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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初期仏教の考えでは
心が脳にあると考えるのは現代科学、心臓のあたりに一粒みたいにあると考えるのはバラモン教(インド)の考え方に似ていますね。
初期仏教(お釈迦さま)の心の理解をご紹介します。ご参考まで。
心は物質のように硬さとか重さとか色や形を全く持っていない、ただ認識する機能だけ、だそうです。
しかし物質に依存して、物質から得られる見たもの、聞いたもの、嗅いだもの、味わうもの、触れるものを存分に楽しみたいものだそうです。
そういう楽しみを得られる(本当は苦しみもそういうところからも得られるのですが)感覚器官を作るために必死で、精子と卵子が一緒になった時を狙って、他所で死んだ生命(心の連続)が一組の細胞に入り込み(憑りついて)、「自分の」体を作り上げていくそうです。
これはお釈迦さまは言っていないのですが、植物や動物の細胞にはそれぞれDNAがあって複製する力があることは最近分かりましたが、心は植物には入り込まない?入り込めない?のですが、人間や動物の細胞に入り込んで、そういう力と協力したり反発したりして「自分」の体を作り上げるようです。
では、初期仏教では心はどこにあると言っているかというと、そもそも物質ではないので、どこかに「ある」と言うことができなくて、そのつど、認識して消える、認識して消える、しかし消えるときに次の認識にバトンタッチするので、どこにあるとは言いにくいけどいつも働き続けているようです。自律神経とかが働いて寝ていても心臓が動き続けるとかも、心の働きみたいです。
それと別に、「意識する」という意味の普通の心の働きは、「意識するそこにその瞬間生まれている」とお釈迦さまが定義しています。ポットに触って「熱い」となったら、その時は心がそこに働いていて、足が寒くて眠れないと思ったら、足先に心がまず働いていて、ぼやーっと考え事しているときは、しいて言えば、脳細胞のあたりかもしれませんね。
こういう根源的なことに疑問を持ち、解決しようとするお子さん素敵ですね。真正面から一緒に考えてあげるお母様も素敵です。
「智慧が人類の宝です」とお釈迦さまも言っています。好奇心と真実を探求する気持ちを持ち続けてください。
その「知ってる」って
こんにちは。何とも微笑ましい会話です。お子さんは「心がココにあるって聞いた!お母ちゃんに教えたる!」という気持ち(心?)で話しかけてきたのでしょうね。だから彼は「知ってる」訳ではなく「聞いた」だけではあるのですが、まぁ嬉しかったからお披露目したくなったのでしょうね。
私なりの理解は「言葉の上にのみあるもの」なので物理的な何かとは結びつかないものの、作用としてあるのだろうと思っています。
でも、その時のお子さんの心の動きを想像すると、本当に心が温まる感じがします。あー不思議。面白い。
細胞1個1個に心があるのかも
1個の細胞しかない単細胞生物もいますので、1個1個の細胞に心があるのかもしれません。
胃袋の細胞は胃袋なりに、足の細胞は足なりに、現場レベルで色々な判断(反応)をして動いています。
国民(細胞)一人ひとりに心があるけれど、政府(脳)である程度組織全体の意思決定を指揮しているみたいな感じかもしれません。
政府の役割は大きいですが、国民一人ひとりにも心はありますよね。
最近の研究では、植物も会話(敵が来たことを仲間の植物に知らせる物質を出すなど)しているとわかってきたようです。
脳がなくても心はあると言えるかもしれませんね。