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憎しみや恨みについて解せません

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有り難し有り難し 46

憎しみや恨みの感情を持つのは、それ程誰かから酷く傷つけられ、心が病むほど深く悲しみ、余程耐え難い事があったからだと思います。それなのに、被害を受けた方が、自分で悲しさや心の傷を癒せずに相手を憎んでしまうと、怒りという煩悩に負けて一番不幸になり、結局被害を受けた方が悪いのでしょうか。相手を傷つけた方は、傷つけたことすら理解する気もなく、忘れて、何にも囚われずに今を楽しく生きられて素晴らしいのでしょうか。
恨みや憎しみの裏側には、きっとその相手に同じことを体感して自分がしたことを理解して悔いて欲しいという思いがあるのだと思います。でも、傷つけるような人がそんな考えに至ることもないだろうし、空虚な願いというか…だから制裁が加わってほしいとか、因果応報はないの?とか、どうして理解すら、同じ苦しみを味わうことすらないの?とか思いが膨らんでしまうのだと思います。
恨みを抱える方も、そうしたいわけではなく、悲しすぎて自動的に反芻してしまったり、反芻することにうんざりしたり、そんな風に生きていると心が一杯になって、新しい幸せや喜びを心に入れる隙間やキャッチするアンテナがなくなっていく事もわかって辛くなったり…。でもそれでも悲しみが大きすぎて止められなくて、時間が流れていき、自分だけが悲しみの中に取り残されていく焦りがどんどん溜まり、それでも昇華できないから憎んでしまうんだと思います。
でもそれって原点に帰れば元々それだけ傷つける行為を相手がしなければ起こらなかったことですよね?ではなぜ被った方が、その原因に対する第1段階の悲しみと、憎しみが増殖していく第2段階の悲しみと、"憎しみや恨みを持つなんて良くない"と抜け出せない自分が悪いような罪悪感と何重苦も抱えて、人を傷つけた方がお気楽に人生を楽しめるのでしょう。だとしたら、人の事なんて気にも止めず、我を通して相手が傷つこうが傷つくまいが知ったことかとやりたい放題やって楽しく生きられるのが良しなんでしょうか。それが道理なら虚しすぎます。
それとも何があっても人生そんな事もあるよねと水に流し、次の瞬間には忘れてハッピーに!とか、比較することでもないのに、もっと恵まれない人だっているから幸せなのよとか、もしくは自分の知らない前世で罪を犯したのだから全てを甘んじて受け入れて下さいなんて言うことなんでしょうか。どう考えたら良いのでしょう…

2023年1月11日 1:30

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

苦の現実を真に救う道はどこにあるのか

ご相談拝読しました。憎しみ、恨み、悲しみについての切実な思いをお聞かせ頂きました。

その、解せない・納得がいかないというお気持ちはもっともだと思います。その疑問を大切に、これから本当にあなたが救われる道を歩んでいきましょう。

仏教は人間の「苦(苦しい・思い通りにならない)」という現実から始まっています。仏教が観念的な理想論を説く教えならば、「傷つけられる人は悪くない!傷つける人が悪い!だから傷つけないようにしよう!」とでも言えばそれで済むのかもしれません。

しかし、仏教が人間を見る眼差しはそんな薄いものではありません。どうあがいても誰かを傷つけてしまうようなものを抱えているのが人間なのでしょう。つまり、どうしても傷つく人が生まれてしまう。その時、では傷ついた人はもう救われないのならばそれこそ理不尽です。
どんな状況の人でも救われなければならない。だからお釈迦様はその人その人の苦しみの現実や状況に応じて教えを説かれたのです。

その救いが、例えば、

・傷つけられた人は傷つけた人が反省したならば救われる
・傷つけられた人は傷つけた人が同じような体験をし、同じ思いを理解してこそ救われる

という条件によるものならば、その条件が達成されなければ救われない人が出てきてしまいます。それが本当の救いなのでしょうか。
それに、もしも条件が達成されたとしても、それは救いではなく、自分の思う条件が叶うことによる満足感と苦しみの深さが天秤で釣り合っただけで、つまりは他の物で苦しみを覆い隠しただけで、苦しみそのものはなんら解決されていないのかもしれません。

仏教が説く救い(苦の根本解決)とはそのようなものではないのでしょう。

そして、仏教の説く「苦」とは悲しい体験や悲惨な体験をした人だけが抱えるものではなく、傷つける人であっても傷つけられた人であってもだれもが抱える現実なにのです。
それは老・病・死に代表される思い通りにならない事実です。私たちは因縁(原因と条件)に縛られているからこそ思い通りにならない。傷つけてしまうという行為も自分の思いを超えて、因縁によって起こり得てしまいます。例えば生育環境や、出会う境遇によって人は凶暴にもなってしまうように。

その私たち誰もが救われる道、それを証してきたのが仏教の歴史です。その道は多岐に分かれますがあなたに合うものが必ずあるはずです。

2023年1月11日 6:04
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有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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恨みを水に流せば戦争も減る

全人類が恨みを水に流せれば、戦争は激減するでしょう。
全人類がお酒を飲まなければ、肝臓病やアルコール中毒患者は軽減するでしょう。
だから、お釈迦様は怒り・憎しみを無くして慈悲を育てるべきと説かれましたし、お釈迦様は飲酒を戒められました。
ということで、優等生的な「正解」は「恨みを水に流しましょう」なのです。
もちろん、煩悩まみれの私達にとって、それは難しいことですが。
前世で犯した罪の報いだ、自業自得だと思った方が、他人を憎んだり他人に八つ当たりしなくてすみますから、輪廻転生や自業自得の考え方は、実は人生を前向きに明るくしてくれる考え方なのです。
自分の心を自分で明るくできる思考回路がある人は、自分で自分を幸せにできますからね。
さて、850年前に浄土宗を開いた法然上人は、幼い頃、家を敵に襲撃されて、父を殺されました。その父の遺言は、「敵討ちはせずに出家しなさい」だったのです。
その法然さんが広めた浄土宗は、どんな悪人でも極楽浄土に往生できる方法論です。
被害者も加害者も、阿弥陀仏の前では等しく救われるべき存在。
被害者も加害者も、極楽浄土では菩薩様同士になり、許しあって仲良くなれます。
たとえば、子供同士が兄弟喧嘩をして仲が悪くても、子供がどんな不良でも、阿弥陀仏という親は子供達を見捨てないのです。
ただし、阿弥陀仏は、善人を見たら喜び、悪人を見たら嘆かれることでしょう。
子供達が、自分で自分を幸せにする思考回路を身につけた方が良いから。
追記
 お礼コメントありがとうございます。温かいお人柄を感じるコメントに、なぜか癒やされました。

2023年1月11日 3:45
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

吉武文法様
気持ちに寄り添い、丁寧な回答ありがとうございました。
まだ、例えば、傷つけた方はのうのうと生きて死を前に初めてジタバタしてちょろっと反省する(様な事がもしかしたらあるかも)程度で、傷つけられた方は、悲しみを抱えながら憎しみに飲まれない様にもがきながら難しい(テクニックがいる)生き方をしなければならない様な…なんでなんや…と釈然としない思いもありますが、私が救われる私に合う道があるという言葉に希望を感じました。見つかると良いなぁ…ありがとうございました。
※※※※※※※※※※※※
願誉浄史様
わかりやすい回答ありがとうございました。私も娘がいるので、お釈迦様が私達人間を子供の兄弟喧嘩のようにご覧になっていると言う話がとてもしっくりきました。確かに自分の子供であれば、性格や特性、事柄を鑑み、見捨てずに、各々が自分らしく、自分で幸せになれるように守り支えたいと思うので。
「自分の心を自分で明るくできる思考回路がある人は、自分で自分を幸せにできますから」という言葉も響きました。いつかそうできる様に心に留めておこうと思います。
がしかし…。私達がお釈迦様にとって子供のような存在だとしたら、なぜ私はこうなの?私も温かい家が欲しかったよぉ…私も頼ったり安心したりする側にいたかったよぉ…なんでなの?と隣の芝生が光り輝いて見えてしまうところがあるのも事実です。勿論私のことを幸せそうと見る方もいるでしょうが、私から見て優しい家庭に生まれ優しい家庭を持ちとても幸せそうに見える人も沢山いて、どうしてなの?と子供が尋ねるような気持ちにもなってしまいます。
ところで、法然上人のお話、衝撃でした…そのお父様も。こういう心の方が仏様のような方なんだなぁと思いつつ、出来そうにないな…と思ったり…。
悶々としていますが、お話とてもわかり易く、心に留めておきます。ありがとうございました。

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