他者を助けることについて
ご閲覧頂きありがとうございます。
仏教から見た「他者を助けること」について教えて頂きたいです。
仏教では相手の苦しみを理解し取り除くという慈悲がありますが、どれくらいの意気込み(?)のものなのかよくわかりません。
例えば、困ってる人が近くにいたらできるだけ力になろうと努力する、というくらいなのか
、自分のことを後回しにしてでも助けようとするのか、全てを投げ捨ててでも助けるものなのか、死を覚悟してでも助けるのか……
仏教ではどのように説かれていますか?よろしくお願いいたします
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
意気込みは同じ
こんにちは。いい所に気がつかれました。「どこまでやれば"本物"なのか?」といったご質問であろうと解釈します。それはね、「自分が出来る範囲で」です。人から言われて、ではなく「自分が出来ると思うところまで」でいいのです。まずは自分が生きる事を第一にして結構です。「自らの命を賭して」というのは、よっぽどギリギリで、自らそう思い立つ時があれば、でいいのです、例えば先の津波の時のような。
難しいですよね、「世界には飢えている子が何千万人といるのです」とか知ると。でも、少なくとも「それを忘れない」という事は申し上げたい。原発被害の人がいる事も忘れない。四六時中考えろ、とは言いませんが、忘れない。貴女の身近な誰かが、道で迷っている誰かが、目についたら。それでいいのです。
改めて言いますが、「貴女が生き続ける」が大前提です。背伸びをして転んでも、助ける人がいるとは限りません。寂しい事ですが、それもまた現実です。
質問者からのお礼
佐藤良文様
ご回答ありがとうございます。
世間では命をかけて見知らぬ人を助けることを美学として讃えられることが多く(まさに震災中のお話など)、もちろんそれは美しい話ですし、された方は本当にすばらしい人間だと思いますが、
自分にはとてもできないなと思いました。
このように、命に代えて他人を助けるほどの覚悟のない私が普段から親切をしようと、それはにせものの親切なのかな、と(おっしゃるように、「本物」なのかと。)不安になっていました。
「できる限り」でいいということで、とても安心しています。
しかし忘れない、これは本当に大切ですね。
既に亡くなられた方に対しても、未来で同じようなことが起こってしまう時のためにも必要だと思います。
ご教授ありがとうございました!