hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

死んだあと

回答数回答 1
有り難し有り難し 18

強い恨みや心残りがあるまま亡くなった場合、自然死、自死、関係なく地縛霊などになってしまいますか?
それとも成仏できるのでしょうか。

2023年4月19日 4:58

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

まず私は心の自縛霊的な負の心理から救われたいと思います

私があなただったら、の話をさせていただきます。
私も正直死にたい気持ちが出ちゃうと思います。
しんどいよね。
私も今に至るまで死にたいと思う心理に追い込まれてしまったことは何度もあります。人間、つらいことが続くと楽になりたくて死にたいと思うようになっちゃうもんです。それは当たり前。当然の道理だと私は個人的に思っております。でなけりゃ自死する人なんていないもんね。ですが死ぬのも本当は嫌ですよね。(´-`*)
死んだ後もこの世は続いていく。誰かのやることが誰かに必ず影響を及ぼす。だから自分で死を選べば、それによって負の影響力が生まれて人の心にも負の心が積み重なってゆく。
前の問答も読ませていただきました。
お父さんとのこと、家族とのかかわり、いじめにあったこと。ほんとにつらかったでしょう。
心の行き場、むかうさきがみつからないよね。(´Д⊂グスン。
それでも人生は秒めくりカレンダーで日々、刻刻、新鮮。
後ろを向いていた貴女も今右を向けばもう後ろを向いていた私はもう過去。こっちを向けばもう右も左もなく、いつもまっすぐ前。
たとえ99の曲り道で紆余曲折、つらいこと、しんどいこと、きついことが続いたとしても!それでも私はいつも「こっち(前)」を向いて歩きたい。
その「こっち(前)」というのは、いつも真新しいから。誰もページをめくっていない。どんなことが起こるかもわからない。いいことなのか悪いことなのかも自分がきめることができる。
だから、もう過ぎたあっち(後ろ)は向く必要はないです。たとえ振り返っても、それは今を費やして過去の記憶を掘りおこしただけ。幻。過去はどんな辛い過去でも、それは自分の力・バネ・薬・経験・自信に向かわせるためのもの。こんな苦しいことをクリアできた人なんて他にいないはず。それでも今日まで生きてきた。これたじゃないか私!と心底🔥燃やすことです。
成仏をすべきなのは今生きながらにです。
負の思いに打ちひしがれてしまえば生きるのは辛い。未成仏。
過去はたとえつらくても、それでも今は今日、今、今も更新中。今の景色は新しい。今も更新された、この常に真新しい希望的な秒めくりカレンダー!ここに希望の光を見出そうと私は思います。どうかあなたも、過去に染まらず、今、新たにより過ごしやすい快適な活路をみつけてほしいです。向かい先がわからないときはいつでもご連絡ください。

2023年4月19日 5:47
{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ