仏教はその目的の実践以外何もない(3)
城邑(南伝 相応部経典 12.65. 城邑)
前略
その時、世尊はかように仰せられた。
比丘たちよ、わたしは、まだ正覚をえなかった修行者であったころ、このように考えた。(この世間はまったく苦の中に陥っている。生まれては老い衰え、死してはまた再生する。しかもわたしどもは、この老いと死の苦しみを出離するすべを知らない。
まったく、どうしたならばこの老いと死の苦しみを出離することを知ることができようか)と。
後略
(私見)
釈尊の説教にしては珍しく、修行者であった過去の苦労を述懐しています。
輪廻転生は既に先達が確認しているので、終始その出離を模索していたことになります。
生があれば自然の摂理で老病死は免れず、仏教とて救うことは出来ません。
死後は苦が無くなるので、仏教は救う必要はありません。
再生を断ち切ることだけが、仏教の救いです。
仏教はその目的以外何もないのです。
「生」については、心が永続するとなれば誕生の仕組みが常識と大幅に変わります。
渡哲也の病状に関して、一時テレビに出演した臨死体験者の新堂のぶ子氏は、講演会で「親が子を生むのではなく、子が親を選択する。」と述べています。
また「子は授かりもの」とも言います。
またある宗教学者が、多分「大縁経(広縁経?)」に「意識が母胎に流れ込むことによって、そして、そこで身心(名称と形態)が増大することによって、この世に転生するありさまを説明した。」と伝えています。
このことから想像すると、総てが自分の意思で生まれたのだということになります。
親は唯この世で生きるために身体を作ってくれたのです。従って「生老病死」は自己責任です。
因みに、浄土宗ではお説教の初めに三帰衣文を唱和するそうですね?
その内容は「この身今生において度せずんば、さらにいづれの生においてかこの身を度せん」だそうですね。
「度する」は多分般若心経の結論である、「照見五蘊皆空 度一切苦厄」の「度」ですから
正に「仏教の目的」そのものです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
日常の悩み苦しみを減らす効果も
たしかに、仏道修行のゴールは輪廻転生からの解脱、涅槃でしょうね。
苦・無常・無我を悟って、煩悩を滅することができた人は、入滅できます。
煩悩は悩み苦しみを繰り返す原因だから、煩悩を滅する(いわゆる成仏する)のが最終目標です。
ただし、一方で仏教には、煩悩(悩み苦しみの原因)をコントロールして、悩み苦しみを制御するという側面もあります。
たとえば、怒りの煩悩を例に出すと、悟っていない(怒りを滅していない)けれども上手く素早く怒りを冷ませるテクニックを使って、怒りに起因する日常のストレスを減らすという効果も仏教にはあるのです。
ほとんどの仏教徒は悟れないまま死んでいきますが、それでも、仏教を知らない人に比べれば日常生活の悩み苦しみストレスがかなり少ない人生を過ごせるという「もう一つの仏教」も、それはそれで素晴らしいと思います。
追記
たとえばサマタ瞑想(何かに集中する)ことで怒りや悲しみを忘れることができれば、ストレスの時間が減ることになります。
悟っていないから怒りや悲しみは起きてしまいますが、比較的素早く気分転換できるコツをつかめれば、日常生活がかなり楽になると思います。
質問者からのお礼
願誉浄史御住職様
ご指導有難うございます。
仰る通りですね。
私はその前に、滅亡した釈迦仏教の説教が阿含経の事ではないかとお尋ねしたのです。
それが自己否定で、これでは宗教にはならないのではないかと思いましたが、解脱に至る道もありましたので、唯一の救いかなと考えました。
「悩み苦しみを制御するという側面」として先ず八正道からはじめるのでしょうか?
私は先ず「殺生禁止」で挫折します。食用はもとより蟻や害虫も禁止となれば、生活に苦労します。
阿含経を理解して、とりあえず今回は安穏に過ごし、来世に期待します。
有難うございました。