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観音経

回答数回答 2
有り難し有り難し 27

観音経と延命十句観音経の違いを詳しく教えてください。

2023年5月12日 10:10

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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どちらも観世音菩薩に帰依し讃嘆するお経です

一般に「観音経」と呼ばれるのは法華経の中の第25品観世音菩薩普門品のことで、観世音菩薩は私たちを救うためにさまざまな姿で現れて教え導いて下さること、どんな苦難が迫っても観世音菩薩に帰依することで必ず救いがあることを説いているお経です。
「延命十句観音経」は高王観世音経という長いお経の冒頭部分の観世音菩薩への帰依請願の部分を抜き出した短いお経で、観世音菩薩への揺るがない帰依請願をお唱えするものです。

2023年5月14日 7:27
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有り難し
おきもち

新潟県上越市、龍興山宗恩寺住職。

ともに自己の内なる観音妙智力・観自在力を示すものです。

観音とは悟りの内容を人格化したもの。
観自在。観自在力。
あるいはやさしさ、慈悲。聡明さ、智慧のはたらき。
人間のもつ自分や他の存在を救いへと導くすばらしい力・エネルギー・功徳力です。
よって
観音経(法華経)も、延命十句観音経もどちらも、人間の内なる観音の働き=観自在のはたらき、智慧と慈悲をひきだす力を持つものです。

読誦、参究をとおして内なる自身の観音様(観自在力)を見出していただきたいと思います。
そもそも観音さまとはお釈迦様の悟り、涅槃、智慧・慈悲を象徴化したものですが、遠くのことにしてはならないと禅宗の指導者お師家さんは説いておられます。

道元禅師も正法眼蔵で観音の功徳についても丁寧に説いておられます。

遠くに観音様を思い描いてよりどころとするというものが世間では一般的ですが、道元禅師や禅宗の祖師たちは、自分の内側の観音の力を自覚するべきことを説いておられます。
そもそも観音経も延命十句観音経もみな人間が悟りを求めて、悟りを得られた人たちがその悟りの内容=仏法の内容を言語化したものです。
当時は学問・文化のレベルも現代のように進んでいなかったので、民衆にも親しめるように観音の功徳を象徴化したものが観音様という仏・菩薩の像でしょう。
それによって、人間が誰でも内なる観音の救いの働きを見出す力ともなりました。
観音経は法華経の一つでお釈迦様(世尊)と比丘たちの問答形式で説かれております。内なる観音・観自在の働きを念ずることで無私・無我の作用が生じて、人間の見解以前の世界を見ることができてすくわれること、そして真観、清浄観、広大智慧観、慈観、悲観の観音さまの五眼(我々の持つ内なる五つの力)についても説かれております。
延命十句観音経は、自身の内なる観自在の力にお任せすることでそのまま、難しい理屈なしに観音の功徳のあらわれることを説いてくれています。
修行、経の読誦、参究をとおして、自己と自己の触れる世界の真実の姿を明らかにすると、この世界は救いの周波数が随所に存在することが明らかになります。(たとえ)あるいは、世界中いたるところ、この身心が触れるところ、出会うところ、すべてがごちそうになります。(たとえ)
そういう心になるためには我を滅して観「不」自在なる縛られから脱して観自在、観ることが自由自在になりましょう。さらに参究して明らかにしてください。

2023年5月17日 7:05
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます!
大変勉強になりました!

ご利益など一緒ですか?

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