hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

怒りを静めるにはどうしたら良いですか?

回答数回答 3
有り難し有り難し 29

他人が細かいルール違反をすると鬼のように怒りを持ってしまいます

例えば、赤信号なんてちょっとくらいなら渡っても構わない
と分かっていますが、そういう光景を見るととても強い怒りを覚えてしまい

車に轢かれてしまえばいいのに と呪いのような気持ちを持ってしまいます。これでは本末転倒です。

他人の些事に一々怒りを持たないようにするにはどうしたらよろしいでしょうか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ムリです

怒りは静まりません。

実はボクもおんなじです。毎日、月忌参りなどで車の運転をしていますが、横断歩道のない場所を渡る歩行者や自転車、無ウィンカーで車線変更や右左折をする車に憤りを感じ、日々の生活でのストレスの多くを運転中に感じています。

場合によっては、横断する歩行者に窓を開けて「あぶないですよ! 横断歩道を渡りましょう!」と大きな声で言ったりもします。ただし、けしてケンカを売るような口調では言いませんが。

しかし、それよりも自分がしっかりした運転マナーを守ることで自分のスタンスを表現するようにしています。

その怒りの根源は何か?

「自分は守っているのに、なぜあなたは守らないのか?」ですか?

「社会がおかしいのは、こういう些細なルール違反がまかり通るからである」ですか?

では、お聞きします。

あなたは社会のルールを100%厳守してますか?

自分の中で「これは守らねばならないが、これは良いだろう」という仕分けが存在しませんか?

たとえば、40キロと書かれた道路を1キロもオーバーすることなく走っていますか?

ルール違反に、ここまでは良くてここからはアカンという自己ルールを持っていませんか?

ボクは持っていますよ。だから、大同小異なんですよ、みんな。

自分を客観視してみましょう。

主観視では見えない自分の姿を見てみることをおススメします。

それに慣れてきたら、人にもそれをススメましょう。

私が私が、俺が俺が、と言っている自分を客観視することで、自他の差はそんなに大きくないことが見えてくると思いますよ。

そして、そこでそんな自分と他がおんなじ目線で交わるご縁ができ、お互いに「あ、そうやなぁ」ていう共感が生まれてくると思います。

主観視を絶対化しないことが肝要かと。

合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

真宗大谷派寺院で住職をしております。真宗目線でお話できることがあれば幸いです。また、ボク自身も勉強させていただければと思っております。よろしくお願いします。

自分を入れない、注がない、差し挟まない。

・怒りの原因は自分の意見の押し付けである
・怒りは期待によって生まれる
・怒りはのぞみが得られない時に生じる
・怒りはワタクシすることによって生じる
だからこそ、
自分を観る事、見つめる事、観察することです。
心をいつも相手に持ってかれておられると思います。
自分の内なる小さな「要求」に気づいてください。
相手側は、あなたの意思や願いとは無関係に動いています。
相手にマイルールを押し付けないことです。
望ましくない相手、出来事、状況。
それそのものをそのままにLET IT GOして、ナイススル~してください。
出来事や物事、相手に対して、自分のルールを押し付けたり、過干渉したり、自分が主役になって物事を扱おうとすると怒りが起きるのです。
私はこう考えています。
世の中に自分のものなど元々何もないのだと。
だから相手や状況が「そう」だとしても、ワタクシ意識を過剰に差し挟まないようにしています。
相手をワタクシ化、自分の事化、ワタクシナイズしたり、理想を押し付けることで、実際の現実との間にギャップが生まれてイラつくのです。
イラつくくらいなら、関わらないほうがマシです。
「これは私が関与すべき問題ではない」と、ブレーキをかけて、それをそのままに往かせてあげてください。
LET IT GO~
LET IT GO~♪
相手がどうであろうと、
LET IT GO
LET IT GO
その人はその人の生きざま。
私が気にかける必要もない、
自分の事として取り扱わなければイイのヨ。
そうすれば、
少しもイラつかないわ♪、です。 

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

「他人にはあまく、そして、自分にはもっとあまく」

porco様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「怒り」に関しましては、これまでにも下記の各問いにて扱わせて頂いております。特に最近では「慈悲の瞑想」をお薦めさせて頂いております。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/cat_318707.html

今回は少し拙経験からお答えさせて頂こうかと存じております。

拙修行時代の先輩で、結構理不尽なことの多い小さな世界の中において、あまり怒らない、怒りの表情を表立って見せたことのない方がいらっしゃいました。素晴らしく人格的にできた方であったと今でも尊敬致しておりますが、ある時に「どうしてそんなにいつも怒らずに過ごせるのでしょうか?」と聞いたことがありました。

そうすると、その方はこのようにおっしゃっていました。

「他人にはあまく、そして、自分にはもっとあまく」と。

普通であれば、「他人にはあまく、自分には厳しく」となるところですが、その先輩の「怒り」を抱えること無くに、何事も淡々とこなされている様子を拝見するに、妙になるほどと納得したことがあります。もちろん、自分にあまいことはなく、他人の不始末なことでも嫌な顔をされずにフォローされていたりしておられました。

今から振り返りますと、怒りを抱えずに過ごす上で、これもある意味では、寛大な心、寛容な心を養う「慈悲の瞑想」に通じるところがあるのかなとも思います。

他人と自分の幸せ、つまり、「自利利他」と言えば、仏教用語としてピッタリとなりますが、他人も自分も「許す」ことによって、双方が「怒り」を抱えずに過ごせるということになるということではないかと存じます。

ただ、間違ってはいけないのは、本当に自分にもっとあまくになってしまうと、ただの堕落、懈怠になってしまいますので、他人を許すための方便としてご理解を頂けましたらと存じております。

また、興味がありましたら「慈悲の瞑想」も是非ご一考下さいませ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/慈悲の瞑想

善処を祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

回答有難うございます
自分よがりに考えてしまっていました
相手の目線に立つことを忘れずに他者への共感をより感じるように暮らしていきたいと思います。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ