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お経を読む(聞く意味)

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お経とはお釈迦様の教えを広く弟子に残す為にあると聞きました。

だとしたら、この現代の日本で意味不明なままお経を聞く意味とはなんですか?

そしてお坊様は経文を理解されてるものだと思うのですが、理解してるものを声に出して何度も読む意味とは?

又、お経は残された家族の心を沈める意味あいもあるとありましたが、知らない言語で何か言われても一向に癒される事はないのですが…

2023年7月3日 20:13

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

世の中のあらゆる文化は先に個人の考えがあるのではない

(^_^)わかりやすく極端なたとえで説明します。
学校の国語の教科書だって当時の文学作品をギャル語やオタク語に勝手に変換されて載せられることはありませんよね。👠💄
そんなことをしようものならその文学を心底敬愛する(# ゚Д゚)フォロワーさんたちからエラい目にあわされますだ。ヒー💦
音楽業界においても歴史に残る名曲を遺した作曲家・アーティストの曲を現代のエゴエゴ、オレオレした人で、その曲の良さも理解しないうちにカバーして、おまけにそのアーティストに対するリスペクトもゼロで尊厳も認めずに自分が自分が、オレがオレがといわんばかりに歌詞もメロディーも勝手にアレンジして自分のクレジットで売り出すようなことがあったらファンの人たちから「🐔🔥…なんだこやつは?」となると思います。それに似たことをする人、各ジャンルでお見掛けいたします。恐るべきは人間の無自覚エゴイズムなり。
よって「敬礼(きょうらい)・孝順・うやまい・祭祀・供養・荘厳」の精神とは、たとえ千年以上昔の方であっても、当初の人や受け継がれてきた形式もちゃんと尊重しているのです。よって実は先人たちの尊厳を認めて敬って行動している理知的で冷静な行動なのです。
その活動・行為の始まりには当時の形があったわけですから、その精神性も味わうつもりで「わたくし意識を優先させることなく」溶け込んでみてください。
過去現在未来の三世を超えた人類共通の精神の共鳴というものをちゃんと感じられるようになるでしょう。
私も大(慈)悲心陀羅尼という真言のお経を何百回、何千回と読んでまいりましたが、当初はなかなかその内容・精神性が理解できませんでした。訳文を読んでもナンダコリャな内容。ですが大慈悲心、大悲心とは慈悲。やさしさ。観音の精神。観自在の精神。我を優先させては功徳を失する。意味を理解しながら読んだりしたこともあります。我を優先させずに読めるようになれた時もあります。無我、無私の行として読めるときもあります。深く参究していくうちに、ああ、慈悲心とは読むことではない。行うことだ、という気づきもいただけるようになり、行えるようにもなりました。
今は法事の際にもそのお経を通じて参列者の人たちに慈悲・気づきの瞑想をしていただき、人間の弱さ、命のはかなさ、我を慎むべきことの大切さを説法させていただいております。ぜひ当山の会にもお越しください。

2023年7月4日 8:54
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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

意味がわかった上で聞く方が良い

ご指摘のとおり、できればお経の意味をわかった上で聞く方が良いです。
また、仮に完璧に意味がわからなくても、仏教用語を見聞きして、普段忘れがちな仏教的な思考回路を使うことが、功徳につながります。
功徳とは、心に善い癖が積もって、悩みにくい性格、悟りやすい(成仏しやすい)性格になることです。
声に出して繰り返し読むことも、仏教的な思考回路を鍛える反復練習になり、功徳につながります。
また、口で唱えることは心を落ち着ける瞑想的な効果も期待できます。
また、一定リズムでお経を唱えたりする脳のリズム運動は、セロトニン神経の働きを整え、「うつ」予防になる可能性があります。
メジャーリーガーがガムを噛みながら野球をするのも、やはり脳のリズム運動になり、セロトニン神経を整え集中力につながると聞いたことがあります。
亡くなった人のためにお経を読む場合、亡くなった人に聴かせる意味と、お坊さんや遺族が読経した功徳を故人のために回し向ける意味があります。
いずれにせよ、仏教用語を少しでも知った上でお経を聴いて欲しいですから、檀家さんには普段からお寺の行事に参加してもらいたいです。
また、法事には、仏像(仏教を教えてくれるスーパー師匠)に手を合わせたり、お香で煩悩まみれの心身を浄める意識を持つなど、読経以外にも仏教的思考回路につながる作法がありますので、それも功徳になります。

2023年7月4日 12:50
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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

御二方ご回答ありがとうございます。

御二方共に基本的に意味が分かってる方が良いとされた上で仏法用語を聞く事が大事だと仰っておられるように思いました。

哲学などでも翻訳者での、解釈の違いが出て来てしまうので原文を読みなさいとは言われてますが私としては意味よりもより言葉そのものを大事とする事の意義は分かりませんでした。

ご丁寧な返信ありがとうございました。

もう少し勉強してみます。

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