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祖母の入院

私の祖母は、昨年の今頃、家で転んでしまい、足の骨を折ったきり寝たきりで入院しています。もう一年以上、入院生活を送る祖母はもともとボケていましたが、今やほとんどなにもわからなくなってしまいました。そんな祖母ですが、お見舞いに顔を出すと、ここから出してくれ助けてくれと最近言うようになりました。
たとえボケているとはいえ、やはり入院しつづけるのは辛い精神状態の様です。今では鼻から栄養入れている状態で、たぶんこのまま家には帰れないと思いながらも大丈夫だからここにいて休んでねと声をかけるのはとても辛いです。
それを見ていたら生きるってこんなに辛いんだなぁと思いました。死ぬ事も辛く怖い事ですが、生き続けることもまた辛いのではないでしょうか。なんだか生きることも死ぬこともすごく怖いような気がしてしまい、私自身もなんとも言えぬ恐怖感を感じるようになってしまいました。祖母になんと声をかけてあげると良いか、死と生きることへの恐怖の乗り越え方などアドバイスしていただければ幸いです。

有り難し 6
回答 3

質問投稿日: 2014年7月27日 2:20

回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

いのちを感じる時間

認知症となったおばあ様の御姿を見るのはおつらいことと存じます。

我が家族は、昨年なくなりましたが
認知症だった祖母を家で見る事に致しました。
これは大変なことでありました。
母の苦労を踏みにじるような言葉もよく申してました。

しかし、我々家族にはキーワードがありました。
「人間は総じて認知症である」ということです。

認知症の方の言葉というものは、特定の人物を指すものではなく
或いは「ここからだしてくれ~」というのもよくうちの祖母も申しておりましたが、
「どこからでたいの~?」と聞くと、「こえだめ」とか言ってました。
(きたなくてすみません)
過去に自分が味わったことを思い出して話していることが殆どだと気が付きます。
おばあ様の今の日常は、「現在」ではないのです。
時にさかのぼり、時に未来に行ったりする。
これが認知症の方の日常であります。

我々はそうした祖母のタイムスリップを楽しみながら介護を致しました。
我々の日常を、祖母に合わせてもらおうとしても無駄だとわかった瞬間です。

そうしているうちに祖母もだんだんと明るくなりました。
最後のころは普通に会話もしてました。
祖母と久しぶりに会話ができたあの喜びは、今も忘れる事が出来ません。

人生とは辛いものです。
でも、そのままでいたらずっと辛い。
だから「明日はいい日になる。一歩一歩いこう」そうおもうことで、
辛いに一が足され、幸いになるのです。

いま、あなたにできること、あなたにしか見られない、聞けないことを
務めていく。これが、「いのち」を生きることだと思うのです。

そしていまあなたが味わっているように、
あなたの御子孫となる方々にも、そうした姿を見せることです。
そしてあなたが味わったように、苦しみを味わってもらう。
そうやって人は、いのちとはなにかを、
見つめてきたのだと思うのです。

いのちとはなにかを見つめさせることは、
自分の中にある、尊いいのちのぬくもりを見つめる事に
他なりません。そうして自分の中に、祖母や、祖父、父母の、
いのちを感じることが出来た時に、
人生の本当の意味での喜びが溢れてくるのではないでしょうか。

あなた様、おばあ様、御家族皆様に
さちあれさちあれ。合掌

3年10ヶ月前

人が苦しんでいるのを観るのは辛い

まずはおばあさまの心の苦を生きておられる間にできる限りなくして差し上げてください。
これがあなたの今回の問いへの答えの一つとなります。
人間の命は、死を迎えるまでは、生きています。有限です。
有限なる命のあるうちに、安心させて差し上げてください。
死の恐怖を乗り越えるには、死というものがどんなものなのかを認識・理解する必要があります。
回答制限は1000字なので、ざっくり結論から申し上げますと、死ぬまでは生きています。
死は体験はできません。人の死を観ることはできても、自分の死ぬことは一生涯体験できません。だから、生きている間には、生を全うしてください。生を全うするという事は、迷いなく生きるということです。迷いなく生きるということは、自分の思いに迷わされずに生きる、自分の思いから自由になるということです。
死を恐れるのも、死に対して不安感を思い起こすのも、みな自分の中で不完全燃焼が怒っているのです。死に対する、矛盾や、誤解や、認識不足や、悪く考える事、暗い思いを持つことで死を恐れるようになります。
死そのものには罪咎はありません。
死を思い起こされる時、あなたがそこに付随させる思いが、暗いもの、陰鬱なものであると、死を憂うようになります。
「死、そのものに罪咎はありません。」
この言葉を私も正しく理解して、死を恐れることはなくなりました。
良かったら参禅してみてください。

3年10ヶ月前

「死=無」ではない

まにょ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

お祖母様を想うお優しいお気持ち、誠に有り難く尊いことでございます。

問い「死について」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002969863.html

「臨終に際して、穏やかに安心して心が落ち着いた状態を保てるようにとして、看取る者たちが、優しく温かい言葉を掛けてあげること、感謝や報恩の気持ちを伝えること、後顧の憂いを無くしてあげれるようにすることなどを通じて、できるだけ安らかに逝かせてあげれることが必要となるのではないかと存じております。・・」、として、その時まで、どうか優しく温かい言葉を掛け続けて頂けましたらと存じております。

どうかお祖母様が少しでも安らかに臨終を迎えられますようにと祈念申し上げます。

死への恐怖の乗り越え方につきましては、仏教における「空と縁起」ということの理解が大きな要諦になるのではないかとは存じておりますが・・非常に難しいのも現実でございます・・とにかく、「死=無」ではないということは、下記の各問いの拙回答を参照して頂きまして、この機会に少しだけでもご理解頂けましたらと存じます。

問い「死への恐怖がぬぐえません」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002999290.html

問い「生きること、死ぬこと、どっちが辛いのか」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002992500.html

『・・自分という存在は、実体としての生もなければ滅(死)もない、ということの理解、いったいではどの自分が生きて死ぬというのか、そのような自分を探そうとしていくら探しても見つからない真理に気づけるかどうか、そこから、あらゆる全てのモノ・コトには実体が無いという「空」(無自性・無実体)を理解できるかどうか、そして、「空」とはいえども、確かにモノ・コトが成り立っている目の前の現実をどのように捉えるべきか、これはつまり「縁起」ということの理解となりますが、この「空と縁起」の理解を進めることが迷い苦しみを超えていく上で非常に重要な鍵となります。・・』

川口英俊 合掌

3年10ヶ月前

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