本人不在時に後輩の評価話をしてしまった
仕事での出来事です。本人がいない時に、その後輩の評価を先輩と話してしまいました。周りに人もいる状況です。
本人が聞けば良い気分にはならない内容です。言ってしまった後に、自分の配慮のなさ、思いやりのなさに自己嫌悪しています。
なにより「その話を人伝に本人が聞いてしまったらどうしよう、私への信頼がなくなってしまう」と自分の心配を最初にしてしまった性根の悪さに、本当に自分にがっかりしました。
全方面での配慮が足りなかったと後悔しています。。
この性格の悪さはどうやったら治ると思われますか。アドバイスいただけますと幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
比較しない習慣を付けていくこと。
拝読させていただきました。
日本語はとても奥深く相手により受け取り方は変わるものです。
評価のなかには、賞賛や非難、揶揄や嫉妬などが包含されます。
相手への賞賛であろうが、話し相手の捉え方で見解は異なりますよね。
今回、"先輩"に対して後半の評価をしたこで、『自己嫌悪』しているとのことです。
自己嫌悪したならば発言の中に、後輩への態度など行為が気にくわずに改善してほしいと懇願の思いが混入していると見解できます。
仏教立場からの真理では、「他人と比較してはならない。比較していては自己の成長の妨げとなる。他人のしたこと、しなかったことを見るな。自己のしたこと、しなかったことだけを見よ。」と説いていきます。真理であるからこそ、探究に探究を重ねた結果、自己の心に納得できていくものですので、多少の時間はかかるものです。
『人間に失敗なくして成長は無し』です。
誤ちをおかしても、誤ちと気付かない人もいるでしょう。愚痴を吐いている人も愚痴を吐いているとも気付かない人もいるでしょう。すべて自己が他人からの接する態度の変化によって①気づくか、②気づかないかで異なってきます。
①と②であれば、①の気づくことは失敗や後悔をしますが、成長していく人です。成長とは心の成長となります。心の成長があれば、言動が変わっていきます。言動が変われば心は不動心を構築していきます。不動心を構築すれば、賞賛や非難など両極に捉われない心持ちを保てていきます。
人は非難を受け取る習性を持ち合わせます。また賞賛は受け取るものの、幸福度を高めると捉える人が大半でしょう。
しかし、仏教では賞賛も受け取ってはならないと説きます。なぜなら、自己の成長を止めたり、"慢心(七つの慢)"が自己嫌悪と繋がるからです。
今回、行った評価では悪いとも良いとも捉えるのは、すみさん自身で有りますが、自己嫌悪と気づく中に、後輩に気づかれたら不安や、中傷へと繋がるのではないかと不安などがある場合には、今回を機に、次回おなじような心境が他人に生じたときには、発言を制御することに意識を働きかけていくことです。
変われることを信じてください。必ず変わります。必ず変われます。必ず成長への機縁となっている今回の自己嫌悪なのです。
合掌
質問者からのお礼
お時間を割いてご回答いただきありがとうございました。
「発言の中に、後輩への態度など行為が気にくわずに改善してほしいと懇願の思いが混入していると見解できます。」とのお言葉は仰る通りです。改善して欲しいと思っていることも、社会人として直すべきなのか、私との方向性の違いから気に食わないと思ってしまうのか、それを区別する必要があることに気づきました。しかしながら、他人を変えるのではなく、自分が変わることに労力を割くべきなのですよね。他人と比べないこと、比べてはいけないと頭では分かっているのに、気がつくと比べていました。非難も賞賛も受け取らないというお言葉に、何かきっかけを頂いたような気がします。
そして、時間をかけても、自分を変える努力をしていきたいと思います。
今回感じた後悔の念、気持ちを自戒として、同じことが起こらないようにします。
ありがとうございました。