過去の行動についての罪悪感と恐怖と希望
私はこれまでの人生で悪いことをして、人に迷惑をかけたり傷つけたりしてきました。そのことは私しかわからないと思います。(迷惑を受けた相手は記憶に残っているかもしれません)。調べて見ると、厳密には法で罰せられる可能性は低いようですが、倫理的には間違いなく問題があります。また現実的に、相手に謝罪する方法がありません。
まず、自分はそういうことをやってしまうという人間ということで、罪悪感はとても強く辛いです。
また、相手の怒りがおさまらず、何とか法的な手段で私を責めようとする可能性もあると最悪の想像をしててしまいます。私は法律の専門家ではないのですべてを完璧に把握できているわけではなく、私の調べでは問題ないと思っていても、実際に裁判になったら負けてしまうかもと悪い想像をずっとしてしまいますし、自分に責任があることとはいえ、それを想像しただけで恐怖です。
(ただ、実際に私が悪いと思っている行動から、それなりの年月が経っているため、相手が何か行動を起こすならとっくに問題になっているはずですので、この可能性はかなり低いことも実際はわかっています)
勝手なことですが、私は仕事でもプライベートでも、もっともっと充実させて、いろんな人たちと仲良くなって楽しい人生を送りたいです。しかし、記憶が消えず「お前は悪い人間だ。幸せになるのはおかしい」と囁かれているようで、実際に良い将来を想像すると「そんな楽しい時に過去の行動が明るみになって大恥をかいて多くの身内や仲間を傷つけることになる」という感覚がつきまといます。この状態では本当に生きるのが辛いです
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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罰せられるかどうかではなく、懺悔できるかどうか
KKさん、はじめまして。質問を拝読しました。
KKさんは、これまでの人生で悪いことをして、人に迷惑をかけたり傷つけたりしてきたことに罪悪感があり、いつ法的な手段で責められるのではないかと恐怖感があるのですね。
今生きている人で、人に迷惑をかけている人はいません。一人では生きられないからです。そして、仏教では罪に対する懺悔を大切にします。罪とは自分が認識しているものだけでなく、「もしかしたら、やってしまっているかも」という罪まで認めて懺悔します。
例えば、僧侶が下駄を好む理由をご存じですか。
靴や草履では接地面積が広く、地面にいる小さな虫を踏んでしまっているかもしれないと考えます。このため接地面積を少しでも減らす下駄を好むのです。
こう考えるとキリがありません。
懺悔することで罪を流していき、こだわりを捨ててあきらめて手放せば新しい一歩を踏み出せると仏教では説きます。
Kkさんは仕事もプライベートも充実させて、仲良く楽しい人生を送りたいのですね。それならば懺悔をしたことで過去の罪にこだわらず、あきらめていくことができるようにしたいものです。
合掌
追伸
懺悔は懺悔文を唱えます。詳しくはGoogle先生に聞いてみましょう。
手放すとは「こだわらない」ことです。
その他、気になることは再度質問してみましょう。違う方が違う角度から回答してくださるはずです。
合掌
質問者からのお礼
お忙しい中、ご返信ありがとうございます。とても心に響きました。視界がすこし開けました。
本当にお忙しいところ、すいません。さらに言葉を頂きたいです。
「懺悔」とは私は具体的に何をすべきなのでしょうか。又は「手放す」ことはどうすればできるのでしょうか