寝たきりになった90過ぎの祖母の話です。
私は祖母と気が合い、おばあちゃんっ子で今まで沢山の思い出があって、沢山支えてもらって。今の私は祖母のお陰であります。というくらい濃い時間を過ごしてきたおばあちゃんです。
倒れてから半年間、私の母が介護してきました。母からしたら義母にあたります。
最近また病院へ運ばれ、現在入院中です。
癌の終末期でもある祖母。
既に手の施しようは無く、状態が落ちついたら帰宅する予定でした。
しかし母から、もう介護の限界、看取りのできる病院へ転院させるね大切なおばあちゃんなのにごめんね私に報告がきました。
コロナで面会禁止。最後を迎えるのは病院。という事を意味しています。
祖母は病院が大嫌いで、元気な時には毎日のように、最後は絶対入院なんかしない!と聞かされていました。
何故私に相談してくれなかったんだろう。
最後の短い時間くらい、私も仕事を休んでおばあちゃんの願いを叶えてあげたかったです。
勝手に決めて相談してくれなかった母や家族に怒りや残念な気持ちがあります。
祖母自身は病名や病状を知りません。医療麻薬で痛みが全く無い為、良くなったのに何で入院しているんだと暴れて拘束されているようです。考えるだけでも可哀想で、、
ただ、頭がはっきりしている時と、せん妄状態の時があるようです。
転院するのは明日。
本当はダメだけど、転院の手続きの間私も病院へ連れて行ってくれるそうです。
生きている祖母に会える最後の日です。
泣かずに、また来るね!と明るく祖母と話せる自信がありません。泣いて病状を知らない祖母を不安がらせるのでは無いかと心配です。
何を話せばいいのだろう、、
どんな気持ちで会いに行けばいいでしょうか。
アドバイスいただけましたら幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
医療的には終末期の患者さんがどのような経過をたどるかは、おおよそ予想できるそうです。一方で、実際に個々の人がどのような臨終を迎えるかは、その時になってみなければわかりません。家族や親族とどのようにお別れすることになるのかも、その時になってみなければわかりません。
私たちはわからないことに対面すると、ついつい悪い方向に予想してしまいがちです。また、逆に何か自分ができることがもっとあるのではないかと焦りを感じることもあります。私自身も家族や親族をおくった経験がありますが、いずれも自分の予想とは違う形でした。また、患者さんにも普段と同じように接する以外に何か特別なことをする機会はほとんどないということも経験しました。どのようであれ、究極的には「なるようになる」と受け入れるほかはありません。自分からあらかじめ過大に不安をつのらせることはないと思います。
よほど急性でないかぎり終末期の患者さんは自分の容態がまったくわからないということはないように思います。痛み止めの医療麻薬を処方されている段階では、これから自分がどうなるのかうすうす感づいている場合が多いと思います。一般的にいって、相当の痛みや苦痛が予想される終末期の緩和ケアは専門知識と経験のある医師、看護師のいる病院でおこなうのが患者さん自身にとっても一番負担の軽い方法だと思います。
今生の最後の締め括りに向かわれることは、それ自体けして「可哀そう」なことではありません。どこでどのようなかたちになるのであれ、お祖母さまがそれを完成させることができるよう、これまでの感謝や敬意の気持ち、また会いたいという希望の気持ちをお伝えされれば良いのではないかと思います。
病院にいる方が患者さんにとっても負担が軽いと言っていただけた事が1番救いでした。
本当にありがとうございました。