死にたいのに半強制的に生かされています
私はもう20年近い年月、10代前半の頃から将来に生老病死の不安を強く強く感じるために死にたい、楽に死なせて欲しいと明確な訴えをいろんな方にしてきました。
日本では法律上許されないことなので訴えを聞いてもらえないのは仕方ないとは思うのですが、何か道徳的のように聞こえる詭弁でもって私の「楽に死にたい」という訴えについて真剣に取り合ってもらえることはありませんでした。
私が最終的に今も「生きる」という選択をし続けているのは私ではあるのですが、世の中が、相談した教師や心理カウンセラー、医師などの専門家も含む方々が私が「生きるという選択」しかできないように誘導して強制してきたから「生きる」しかない状態に置かれているのだと感じて止みません。
死なせてもらえていれば少なくとも今、人間として生きているせいで感じる段階の苦しみは取り除かれていたはずです(死後の苦しみは今回は別問題として置かせてください)。
私に生きる選択を半ば強制した連中は私が苦しんでしまっている責任をとってくれているとは思えません。これは理不尽極まりないものです。
本当はどこかで折り合いをつけて、解決不可能な問題は程々にして、今を生きることが大切なことはわかっていますが、私の体、空気、水、食糧を含む私を生かすありとあらゆる全てのものが、無責任であると感じることの怒りはどうしようもありません。
どのようにすればよろしいでしょうか?お忙しいとは思いますが、答えていただけますと幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
無責任ですよ
あなたも私たちも、人類繁栄のため、生物繁栄のためのコマにすぎないのです。
数撃ちゃ当たる方式で、大量に子孫を残せばその中の何パーセントかは生き残ってくれる。
様々な試作品の中で、いくつかヒット商品が出れば良い。
ポテトチップスだってカップ麺だって毎年新しい味が出ますが、大半は世の中から忘れ去られます。
忘れ去られた試作品の気持ちに対して、誰も責任をとってくれませんし、責任をとる必要もありません。
生物というのはそういうものです。
ということで、こんな私の人生も、まぁミミズと比べたらマシかな、くらいに考えましょう。
そして、南無阿弥陀仏と念仏を唱えれば来世は極楽浄土に生まれられると思いましょう。
生きていれば念仏の功徳が積もって、来世で、極楽浄土での成仏が早くなる。
だから長生きするのも悪くない。
死ねば極楽浄土に生まれることができる。
だから早死にするのも悪くない。
生きるも死ぬも問題なし(思い煩う必要なし)と思えたら、あなたはこの世でも光り輝く幸せな存在になれます。
難しく考えず、
なむあみだぶなむあみだぶ
なむあみだぶなむあみだぶ
と、身体(脳)のエクササイズのつもりで毎日念仏を唱えてみてください。
けっこうポジティブになれます。
追記
なむあみだぶなむあみだぶ
と実際に念仏を口で唱えることをお勧めします。
怒りの妄想雑念から念仏に意識を移すだけで、ストレスを感じる時間が減るでしょう。
追記
脳に新しい刺激を与えれば、脳内環境(脳波や分泌物)は変化します。
念仏を実際にやるなど、あなた自身が脳に新しい刺激を与える行為をする、あなた自身の協力がなければ、他人がどんなアドバイスをしても脳(ストレス)を変えるのはなかなか難しいですね。
追記
1、自殺者の9割は「うつ」等を患っているといわれ、あなたにもその可能性があると考えました。念仏や題目等の脳のリズム運動はセロトニン神経を整えうつ予防を期待できます。
2、念仏すれば死後に極楽に往ける。そう思えたら救いになる可能性があります。また、念仏生活を通じて極楽を信じられるようになる場合もあります。
質問者からのお礼
願誉浄史様、回答ありがとうございます。
やはり納得はいきません。
極楽浄土ってなんですか?保証はないんですよね?無責任であることは自覚しての発言のようなのであえてわざわざ言うことでもありませんが無責任は傷つきます。
願誉浄史様、追記ありがとうございます。
周りは無責任で、今も生かされている私は自分のストレスを自分でどうにかするしかなく、減らす方法として念仏を唱えるといいということを仰っているのかと思います。
それは多少言っていることに差異はあっても私の苦しみを聞いてくれた人が提示した案と違いのないことです。納得のいくものではないということです。
お忙しい中回答をいただけたことはありがたいですが、楽に死なせてほしいという昔からの私の願望を覆してくれる、生きていてよかったと思わせてくれるものとは到底思えません。楽に死なせてもらう以外の私の苦しみを取り除く方法はないのですか?と期待したのが間違いでしたね。
これからも全てに絶望して、頼んでないのに生かされる人生を送ることに変わりはないとわかりました。
願誉浄史様、また追記ありがとうございます。
私は創価学会二世でして、念仏ではなく題目ですが、実家にいた頃は親の言いつけ通りに、学校生活などの苦しみを取り除くために唱えていた身にありました。
その上で唱えることはさまざま抱える問題の根本解決とはならず、私が望んでいるのは根本解決であり、目的のための手段として間違っていたと思っています。今回も何もやる前から嘆いているつもりはありません。
私は「楽に死なせてください」と明確に条件を提示していて、それは無理だと、お坊さんだけではなく、一般の専門家などの相談相手だけではなくありとあらゆるものが私の気持ちを否定して生かそうとしてくるので、否定するからには責任をとって、私から苦しみを取り除くべきなのではないかと怒っています。
しかし願誉浄史様は生物とは無責任なものだと仰いました、事実だとも思います、僕のことに限らず、生物が無責任を貫いた先の報いはどうなるのでしょうね。