なぜかいつも一人
子供の頃からふとはぐれてしまったり、輪に入れずに一人になってしまうことが多く、ここのところはやっぱり週末も誰かと過ごすというよりは一人で出かけたりということばかり。
誰かとつるむことがそれだけで良いことかといえばそうではないだろうし一人でいる時にはないトラブルや悩みもあろうかとは思います。
他人で自分の穴を埋めようとしてはいけないとは思います。
外国人の友達はよくできていた頃があって、それでも彼らは帰国して物理的距離に反して会いに行けば大丈夫なのですが親兄弟には言われぬ日々の暮らしでの喜び悲しみを共有する相手がいなくて、それは少しつらいです。同時に、一人いればそれはふと虚しさに襲われて、一人でいない時もやっぱり虚しさに襲われて、でも何かを誤魔化す、紛らわすツールとして誰かと一緒にいたいというわけではないとは思ってます。
虚しさ、これが人をして私から遠ざける何かなのかもしれないです。
飲み屋だスナックに行って人恋しさを紛らしている自分がなにを求めているのかもわからないです。コロナ禍の時に父親が極度の警戒心から出歩かないでくれと言っていた時期には達観した気になって私なら孤独感に苛まれまいと平気を貫いてきたかにみえたのですがつらいのは果たして孤独感なのか、自分の声が誰にも届くことない感覚、あ、それも孤独感なのか。
これとても数十年したらみんないないんだろうなとかやっぱり独りになるんじゃなかろうかと、要らぬ心配なのでしょうがまた虚しくなり。
結局は他人は変えられないし自分だって思うようには操縦できないし、世界は自分のためにあるわけではないし思い通りにいかなさを納得するとか泣き出したいこんな気持ちを飼い慣らすかする術をどうにか身につけたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
涙こぼせば
こんばんは。何だか無常ということへの気づきがあるのかな、と感じました。人と一緒にいても、一人でも、結局自分にしか戻れない。独立といえばそうだけれど、孤独みたいなものでもある。
問題はその「一人であること」をどう認知するか、自分なりに捉えるか?という問題なのだと思います。
家族であっても配偶者であっても、まして友達でさえ、一生一緒にいるものではない。これは、多分誰にとっても等しく厳然とした「ありさま」です。それを緒から悲しいことと捉えず、「そうか。じゃ僕はその前提でどう生きる?」という…正しく「君たちは同然生きるか」の出発点な訳です。
それに対して今取り敢えず泣けそうなのであれば、泣いてみると良いです。「泣くと人間こうなるんだ」をじっくり見る。しみじみと自分を知る、良い機会だと思いますよ。
質問者からのお礼
佐藤様
なんだかこうした考えは10年ほど前に一つ年上の従兄弟が病死して、なおのこと感じるようです。
なにかこんな感覚を持ちながらそういうところから意識的にか無意識的にか避けようとする人、享楽的というと違うのかもしれませんが、人生楽しんだもの勝ちみたいな空気にさらされると寂しくなります。
あの冷たくなった従兄弟の脚に触れた時の泣いていた自分、色々考えるとあれは何に泣いていたのかなと、それは今思うと従兄弟との別れ、とだけひとつのことでは片付けられないような気がしています。
お言葉を携えて歩いていきたいと思います。
ありがとうございます。