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生きる意味を探しています

回答数回答 1
有り難し有り難し 8

一年前祖母が老衰のため亡くなり、ずっと闘病をしていた母も今年亡くなりました。
一年間で2人も家族を送り出し心がしんどいです。
仕事も休んでおり何も手につかず、生きる意味や死ぬってなんだろうと考える日々です。
もう自分を終わりにしたいと何度も思ってしまいます。

2023年9月3日 10:24

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

生きる意味 その向かうべき方向性

人は何のために生まれてきたか。
元々そんな意味はないといえばない。そうと説く人もいるでしょうが、ないと断ずれば人はなんでもアリということになり、いい加減な生き方をする輩も増える。歴史がそれを既に実証しているからこそ、生きる意味、どう生きるか?を真剣に問うべきでは?生きる意味を求めずにダラダラと生きいれば、いい加減なことをしながら生きるようにもなる。
だからこそ、生きる意味をきちんと定める。見極める。
この人生において、いい加減で野放図で親任せ、他人任せな生き方をしていると、守ってくれる人がいなくなった時に何をしていいかわからないようになる。
生きる意味とは何か。
自分もこの上なく安心で周りの人も安心できる生き方でしょう。
自分が自分自身に心底安心できる生き方でしょう。
息を吐くように人を救う活動をされる方もおられる。
あの人の生き方は立派だなぁと思えるような人が「いない」わけではないでしょう。私たちよりも立派な生き方をして多くの人たちに生きる力を与えてくださっている人たちが現実のこの世の中で多数存在している、いたのですから、そういう生き方に学ぶ、まねぶ。尊重する。
各国を見回してみてください。
いい加減な統治者が国のトップになれば国が傾く、国民は餓える、戦乱はやむことがない。人が迷い苦しむ。
たとえそういう国に生まれようとも、ただ一人でもこういう世の中を変えたいとエゴを捨てて発心、大誓願をおこせばその人間は変わる。
自分や人や世界を変えることはできないという訳ではありません。縁を変えること。働きかけを変えることです。
今までは「そのような」働きかけ=縁を自分に与え続けていたからこそ、火と材料で喩えれば「そのように」燃える炎となった。くすぶる結果となった。
炎が燃え盛るか、鎮火するか、不完全燃焼になるかどうかも自分次第。
自分が自分に縁をどのように加えているかが問われる。
「そのような」縁を加えれば結果も「そのような」結果になる。
何もしなければ何もしないという縁を加えている。だから結果もたかが知れている。
今現在、生きる意味が見出せないというのであれば、いまこそ生きる意味をきちんと問うことでしょう。坊主の一言二言で「ああ、そうか。」と目覚めるような生き方でよいのか。真剣に発心して、これぞ!という真実の道を見出すべきです。
ここで文字で答えを出すことではありません。

2023年9月3日 14:35
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お忙しい中お返事ありがとうございます。
考え直してみます。

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