生きる意味を探しています
一年前祖母が老衰のため亡くなり、ずっと闘病をしていた母も今年亡くなりました。
一年間で2人も家族を送り出し心がしんどいです。
仕事も休んでおり何も手につかず、生きる意味や死ぬってなんだろうと考える日々です。
もう自分を終わりにしたいと何度も思ってしまいます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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生きる意味 その向かうべき方向性
人は何のために生まれてきたか。
元々そんな意味はないといえばない。そうと説く人もいるでしょうが、ないと断ずれば人はなんでもアリということになり、いい加減な生き方をする輩も増える。歴史がそれを既に実証しているからこそ、生きる意味、どう生きるか?を真剣に問うべきでは?生きる意味を求めずにダラダラと生きいれば、いい加減なことをしながら生きるようにもなる。
だからこそ、生きる意味をきちんと定める。見極める。
この人生において、いい加減で野放図で親任せ、他人任せな生き方をしていると、守ってくれる人がいなくなった時に何をしていいかわからないようになる。
生きる意味とは何か。
自分もこの上なく安心で周りの人も安心できる生き方でしょう。
自分が自分自身に心底安心できる生き方でしょう。
息を吐くように人を救う活動をされる方もおられる。
あの人の生き方は立派だなぁと思えるような人が「いない」わけではないでしょう。私たちよりも立派な生き方をして多くの人たちに生きる力を与えてくださっている人たちが現実のこの世の中で多数存在している、いたのですから、そういう生き方に学ぶ、まねぶ。尊重する。
各国を見回してみてください。
いい加減な統治者が国のトップになれば国が傾く、国民は餓える、戦乱はやむことがない。人が迷い苦しむ。
たとえそういう国に生まれようとも、ただ一人でもこういう世の中を変えたいとエゴを捨てて発心、大誓願をおこせばその人間は変わる。
自分や人や世界を変えることはできないという訳ではありません。縁を変えること。働きかけを変えることです。
今までは「そのような」働きかけ=縁を自分に与え続けていたからこそ、火と材料で喩えれば「そのように」燃える炎となった。くすぶる結果となった。
炎が燃え盛るか、鎮火するか、不完全燃焼になるかどうかも自分次第。
自分が自分に縁をどのように加えているかが問われる。
「そのような」縁を加えれば結果も「そのような」結果になる。
何もしなければ何もしないという縁を加えている。だから結果もたかが知れている。
今現在、生きる意味が見出せないというのであれば、いまこそ生きる意味をきちんと問うことでしょう。坊主の一言二言で「ああ、そうか。」と目覚めるような生き方でよいのか。真剣に発心して、これぞ!という真実の道を見出すべきです。
ここで文字で答えを出すことではありません。
質問者からのお礼
お忙しい中お返事ありがとうございます。
考え直してみます。