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私も大切な人も儚い存在

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先ごろ、東日本大震災で甚大な被害に見舞われたラグビーの町、釜石がわずか8年後のラグビーワールドカップ招致を成功させ多くの人が町を、共に暮らす人々、未来の世代を思い、活動してこられたドキュメンタリーを観て、涙が止まりませんでした。
しばしば人と人の思いのバトンをつなぐ様子に、私は涙しております。
しかし、私の祖父母からは関東大震災や空襲の話を聞き、やはり関東、南海トラフ地震など恐ろしく、こんな大災害でなくとも私たちは思いがけず大切な人を失い、また自らも例外ではなくいつだって命を失う可能性を生きています。
怖くもあり、そもそも自分の死以上に大切な人もいつか死ぬ、それもことによると無念で苦痛に満ちたものとなるかもしれないと思うと胸が張り裂けそうです。
時に、浄土に召され仏となったとしたらどのように我々の営み、人の思いをつなぐバトン、慈悲というにはあまりに未熟な、それも煩悩に満ちた愛は、映って見えるのでしょう。
広大無辺の宇宙の幾星霜の過去、未来を思うとこの今の生活や愛などが、あれほど涙を流していた美しい営みさえもが虚しいというとちょっと違うのですが寂しい気持ちになります。

2023年9月8日 19:59

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

だからこそ儚くない三世を超えるアクションがある

(^_-)-☆
「私も大切な人も儚い存在」という考えは一面的であると思います。
もちろん、儚い存在、はかない面もあるにはあるでしょう。
ですが、釈尊や祖師たちが残された功績ははかなくないのです。
現代よく使われる言葉で「爪痕を残す」といいますが、仏、祖師たちが残された爪痕は過去現在未来の三世を超えている。そういう行いはあるでしょう。
この世が儚い、家族や愛する存在との関わりが儚いと思うのであればこそ、永遠に残るような生き方を志すべきでしょう。
別に志さんでもいいですが、最高にいい生き方というものはある。ないわけではない。人を救ってみることです。人を支えてあげることです。人をより良い心へと導いて差し上げることです。あなたを救ってくれた人、助けてくれた人がいるはずでしょうから、そういう方々のありがたい行いに目を向けるべきでしょう。
優れたアーティストの作品や活動も時代、国境、時空を超えて愛され続けます。
あなたもそういう行為を志せばよいのです。
星は無限無数にありましょうが、それでも今輝いている星が存在するのです。
その星の光がたとえ当時の光であったとしても、それでも今の人に光を注いでいるのです。
あなたの大切な人に永遠持続な力を注いであげてください。
私はお釈迦様、祖師たちの教え、正伝の仏法に遭遇することができて従来は苦しかった人生が大変安楽になりましたから、その功徳のすばらしさを同じように苦しんで困っている人たちにお伝えすることぐらいしかできません。
この世には多くの人たちに広められるべき、救いや助けの作用となることが沢山存在するはずです。
あなたがご自身の人生において学んだことを、どうぞ惜しげなく、他の存在型に対して広くめぐらして誰かのお力になって差し上げてください。

2023年9月9日 22:09
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

何かを残すこと、伝えること、ときに自分がミジンコみたいに小さく見えて打ちひしがれることもしばしばですがそれでも誰かの心に少しでも響いたら合格、くらいにしてあきらめないようにしていきたいです。
ありがとうございます。

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