hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

家事をし過ぎる夫に上手く対処できません

回答数回答 1
有り難し有り難し 11

夫は結婚する前一人暮らしだったこともあり、家事全般をそつなくこなせる人です。
そして、私は家事の中で掃除
が苦手です。
3年程前からはいつの間にか休みの日は風呂掃除と洗濯物を干して取り込み畳むまでをしてくれるようになりました。

最初は、なんだか嫌な気持ちでいましたが開き直ってありがたいと思うようにしていたのですが、9月に夫の転勤があり以前より出勤時間が遅くなったことで平日も洗濯物を干して行くようになりました。
たぶん夫は良かれと思ってやってくれているのでしょう。
ただ、私は単純にラクになったと思えないのです。
洗濯物を畳めば私よりキレイだし、掃除も私より出来る。私は、自分に価値はない、劣等感からイライラして先日は夫に当たってしまいました。

また、平日のパートが休みの日は、私はひとりになりたいのに何故か夫は自分の有給休暇を私の休みにあわせて取ったり。
そんなこともイライラの要素になり、平日の休みはたまにはひとりになりたくないのか聞いてみましたが、そうは思ってないと言われました。

こちらは、少しでもふたりの時間を減らしたいと思っているのですが。

この先、どうしたら上手くやっていけるのか不安です。

どうぞご回答をよろしくお願いいたします。

2023年9月19日 17:05

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

わが為にやるのではなく、人がより豊かになることのために為す。

お互いにバツ2バツ3のおじちゃんおばちゃん夫婦がおられます。
彼女たちは一緒に坐禅会に来られていました。
ところが、それが終わるとランチを終えてそれぞれ別行動をするのです。
それぐらいがちょうどいい距離感なのだと。
そもそも夫婦はそれぞれお男と女。
そもそも人間はそれぞれDNAが違う。育ちが違う。個性が違う。
呼吸の回数も違う。毛の数も違う。生命体も違う。
個々のハスノハの僧侶たちだって回答がそれぞれ違う。
葉っぱだってそれぞれ違う。
それでも同じ花を咲かせる、同じより良い人間性を目指して共に成長しあって向上しあって教導しあって進んでいくダブル共同教導精神なのです。
お二人にともに咲かせる花はありますか。
それぞれ成長しあうための根っこや葉っぱ、茎は違ってもお互い今日という日の中でよい花を咲かせてもらいたいものです。
その花は発見かもしれない、共鳴かもしれない。
思い出かもしれない。同じ、美味しい!(*´Д`)(*´Д`)🍖かもしれない。
同じ家事をしながらも競争ではなく、協奏かもしれない。🎻📯
ともにより良いメロディーやハモリを生み出すことで今日一日のお互いがよい救いのサウンド、仏のサウンド、法音、観世音、慈恩(慈音)を醸し出すのです。
口にする音だってそうあるべきです。どうして自分や相手を悪く貶めるような言葉が救いの音になんかなるでしょうか。
心で思うことだってそうあるべきです。
どうして自分も相手もうれしくない評価や評論があなた方の心をより豊かにしてくれるでしょうか。
それはお互い不協和音になってしまっているだけです。
ちょっと、リズムや歩幅、歩く速度を自分自分しないことも大事かもしれませんよ。
ああ、ひょっとするとお互い、自分が先にという気持ちが強くなってしまっていたのかもしれません。
それだって、今あるお互いの過ごしやすい環境、家庭をもっとちゃんとしたものであってほしい、こうあるべきではないか、という気持ちがベースに合って手探りの中、より良い方向を見つけ出そうとしていた姿なのかもしれません。
それがうまくいかないからこそ他人とは異なる甘えられる相手に対して怒りの気持ちにもなってしまっていたのだと思い、相手に怒りや不満よりも、感謝と懺悔の気持ちで尊重することです。それが報恩の行というものです。誰の為にでもなく、全人類の慈恩に報いるべく行動するのです。

2023年9月19日 18:09
{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

さっそくご回答いただきありがとうございます。
お互い自分が先にという気持ちが強くなっていたのでは?
…そうなのかもしれません。
誰よりも甘えられる夫に対して怒ってしまい自己嫌悪という生き方が続いていてなかなか成長できません。
頭ではわかっているつもりなのですが。
夫に感謝と懺悔の気持ちを…
忘れないように努めます。

煩悩スッキリコラムまとめ