自信や自己肯定感についての相談
40代、営業職の中間管理職です。
ノルマの高さや人間関係に悩みを持ちつつ、何とか乗り越えようと頑張ってきましたが、先日癌が見つかり手術することになりました。
経過は良好で、現在は職場にも復帰していますが、環境は変わっていません。
仕事の成果が出ない中、自信を失い、自分では無理なのではないかなど自己肯定感も低く、このストレス下ではまた同じように病気に罹るのではと危惧しています。
「ハスノハ」の他の方の相談を見ると、死にたいなど切実な悩みをお持ちの方もいますが、相談者の背景には少なからずうつ病などのメンタル疾患の影響もあるかと思います。私もメンタル疾患なのかもしれません。
今のポジションに執着はないので、仕事の負担を減らしてもらうよう上司に相談しようと考えていますが、心の病に病院の薬ではなく、仏教の教えではどのように考え向き合っていけばよいのかアドバイスいただけると幸いです。
よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
病を治すのではなく原因を根絶すればいい
人間はそもそも人間が作ったルールによって縛られたくないんじゃありませんか?(*´ω`)
苦しいことって、みんな人間が決めたルールでしょう?
炎天下の中、ブルーシートの家で生活する方の動画をみましたが、その中の一人が人間世界のルールに縛られない自由さが心地よいと言っておられました。極端な例ではありますが、人はおよそ誰もが自分に無理をして苦しいことがあってもやらなければならない、やらなければいけないというリスクを背負い込んでいるのではないでしょうか。
自分に自信がない、自信が持てないというのも、人と比べたり、誰かから否定されたり、自分が自分に対して辛辣な評価を繰り返しているのではないでしょうか。いわゆるネガティブな心理ワード、否定的な脳内ツイートがあふれている状態です。
人間の脳というものは主語がありません。自分にも相手にも悪く言えばその毒素がその身に及ぶ。
禅宗では自己・他己といい、脳内で思う他人の様子も自己の内なる心理的作用、映し出され、自己投影なのです。
たとえば、これをご覧の方は私のことを知らないのですが、こういう返信・回答をみると「あ、この丹下なる謎の珍僧からの回答が来た」すると私のことは知らんのに、脳内には「謎のこの私」作用が現れるでしょう。その内なる他人に対する心理作用はみなタコならぬ他己なのです。🐙
内なる他人のあらわれ意識。
人はそういう内なるもの🐙をいつも相手にしている。
現実の現場をみない。
あなたのために厳しく喝を飛ばせば( ゚Д゚)オメ~🐑はいつも内なる自分越しのオメ~🐑の色付けした世界の方を見てるんだよ、ということなのです。
その迷妄なる救いようのない内側のモヤモヤした思いをこそ衆生というのです。
禅宗六祖慧能禅師は「自己の内なる衆生を救いなさい」と。
外のどうにもならない現実がどうだこうだではなく、まず、自分が頭ン中であれこれ思い描いているそっちの羊をすくいなさいと。
よって悩みや迷いとはみな頭の中の何とかしたい羊ちゃんだけなわけです。
つまり、簡単に言えば、問題は山積みではなくたった一つ、たった一念でしかないことを見抜けばよいのです。
今現実に目の前にいない人とか、今度職場行ったらどうしようとかは全て自分の脳内の作用「一念」が生み出しているサブ、副産物的なネガティブ毒素なのです。
相手にすべきは一期一会の現実、現ナマ一点のみです。
心の苦しみとそのままの私を救う仏様の慈悲
こんばんは。亀山純史と申します。
私たちの心の苦しみと仏様の慈悲について、お話させていただきます。
メンタル面で苦しんでいる人に対して、仏教ではその苦しんでいる心を引き起こしている事態そのもの(例えば、仕事の進捗状況や自身の病気など)を否定しようとはしません。勿論、仕事がうまくいけば、気持ちの面でも晴れやかになるでしょう。病気も完治すれば、その病に対する不安も消えることでしょう。しかし、それは一時的なものです。また縁があれば仕事がうまくいかない状況に陥るでしょうし、また病が再発することもあります。そして人は、再びメンタル面で大きなダメージを受けることになり、そのような状況においては、永遠の安らぎは訪れることはないのです。
そこで、例えば、阿弥陀仏の慈悲は「そのままのあなたを救う」という働きなのですが、「そのまま」とは、「今の仕事の進捗状況のままで」「今かかっている病気を持ったままで」ということなのです。決して、今の仕事の進捗状況を改善して、とか、今かかっている病を治して、ということではないのです。
私たちの苦しみを引き起こしている事態そのものは、実体の無いもの(諸法無我)です。ですから、仏の慈悲は事態そのものを否定しようとはしませんし、そもそも、否定しようとしても、実体が無いわけですから出来ないのです。仏の慈悲は、事態そのものに執着している私たちの心(「この仕事ができなければ、自分はダメ人間なんだ」とか、「大病にかかっている私は、社会のお荷物なんだ」とかいう心)を否定しようとするのです。
したがって、苦しみの中において、阿弥陀仏の慈悲に出会うとき、その苦しみを引き起こしている事態が、「そのまま受け入れられる世界」「容認される世界」、そのような世界が私たちには開かれてくるのです。
そうすれば、「そのままのあなたを救う」という仏様の慈悲に出会ったとき、人は、事態そのもの(仕事の進捗状況や病気など)を否定せず、その事態そのものを持ったままで、その人は阿弥陀仏の慈悲の中にいる、ということなのです。
質問者からのお礼
亀山純史様:
ありがたいアドバイスを頂きありがとうございました。
引き起こしている事態そのものには実態がなく(諸法無我)、問題はその事態に執着している心・・・。
なるほど。難しい中に大きなヒントが感じられ、もう1度内省してみようと思いました。
実体のないものに悩んでいたのかと思うと、気持ちが幾分軽くなり、俯瞰して考えれらるかもしれません。
重ねてお礼申し上げます。
丹下覚元様:
ありがたいアドバイスを頂きありがとうございました。
外のどうにもならない現実ではなく、自分の頭の中に意識を向けたいと思います。
自信についてもそうですね。人との比べ癖や脳内ツイート。脳に主語がないというのも聞いたことがあります。
自分の出来ている部分を認めてあげるところからスタートしたいと思います。