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母親の老いが怖い

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私は自分の母親が大好きです。趣味、性格、すべて合い、お友達と旅行行くより母親と行く方が気楽でいいなって思うくらいです。母親は60代中ばに差し掛かるところで、病気をしているわけではないので心配することはないのですが、やっぱり私より先にいなくなることを考えるととてもさみしい気持ちになります。
そして、最近この気持ちどうしたらいいだろうと思うタイミングがあります。一緒に暮らしていないので、テレビ電話をすることがあるのですが、母親がどんどんおばあちゃんのような顔になっているところを見ると心がズキズキします。簡単に言うと現実を受け入れられていないのだと思います。
しかし、単純にそれだけではなく、自分のことではなく、大切な人のことだからどうしようもなく現実を受け入れたくない気持ち、伝わりますでしょうか。
答えが出るような質問ではありませんが、自分の気持ちを少しでも楽にできたらいいなと思っております。

2023年11月2日 3:55

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お母さんは永遠に可愛らしい存在

いくつになってもお母さんはお母さんでしょう。
年をとってもお母さん。
亡くなられてもお母さん。
お母様のありかはそこに存在するお母さまでありながらも、そのお母さまを感じ、見て、聞いて、かかわりあうこちら側にある。
仮に亡くなられたとしてもそれはアルバムの9999ページから10000ページになったというだけ。亡くなられたとしてもそれでもあなたとお母さんとの関わりは続いている、続いていくものなのです。だから、安心して今は今のお母さんと楽しくかかわりあってください。お母さんだけが年を重ねるのですか?あなたの方は止まっちゃっていませんか?そんなことはないでしょう。
あなたも川の流れの中にある。お互いがこの地球始まって以来、宇宙始まって以来の大きな法の川の流れの中にともにある。これからもお母さんという存在があなたに大きく作用する。そして、あなたの存在も誰かに作用する。おしゃか様もキリスト様も歴史的偉人もすべての人々が無くなられたとしても、それでも今もこの時代で誰かの上に作用しているでしょう。そうです。人は亡くなられても関わりは続いていくのです。誰がお釈迦様が無くなられたことを今もエンエンと泣いておられるでしょうか。亡くなられたのにもかかわらず、今もその生前の偉業と関わりを続けておられるでしょう。歌手やアーティスト、人から愛される存在だってそうでしょう。
死しても誰かを生かし続けて、励まし続けて、楽しませている。素晴らしいことです。素晴らしい世界なのです。安心してください。
生は生ですばらしいことなのです。
どちらかが亡くなられてしまったとしてもそれでも大丈夫なのです。
それでも関わりは継続していくから大丈夫なのです。
敬うという精神。
孝順という精神。
慕うという精神。
あなたも仏さんでお母さんも仏さんですべての存在が仏さんです。
今日お会いするすべての出来事、すべての人々、すべての事象がみな仏さんです。
そういう敬いの精神でもって、一切に触れるとき、失われる気持ちや損なわれる心は生まれません。
老いは老いというネガティブな意味をそこに添えるものではない。
生命の円熟であり、完全に今という生の姿を全うしている姿なのです。
認知症や老化があってもそれも命のさまが穏やかになっていくというありがたい仏の授け、授かりなのです。

2023年11月2日 8:09
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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下様
ありがとうございます。すごく小さなところでぐるぐるしていたような気持ちです。もう少し大きな流れの中で力を抜いて生きれたらなと思うようなお言葉でした。

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