過去の自分の未熟さが恥ずかしい
よく、俳優さんや歌手が自分の過去の演技や歌は恥ずかしくて聞けない。見ていられないなんていう話を聞きます。
過去の自分が拙く見えるのは、それだけ現在の自分が成長している証だと思いますが、やはり過去の自分の未熟さをまざまざと見せつけられるのは結構しんどいです(´Д`)
なんでもっと上手くやれなかったのか。なんでこれでokと判断して人前に出せたのかという考えが頭の中で渦巻いてしまいます。
自分としては確実に成長は実感しています。そこで自分の腕も上がったもんだと考えられるようになれれば良いのですが、なかなかそうもいかないというのが現状で、成長の実感よりも口惜しさのようなものが勝ってしまいます。
どうすればこういった感情と折り合いが付けられるのか悩んでいます(´`;)
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
心のこもったものは必ず人を動かす。
拝読させていただきました。
ご質問の通り明確に過去から現在を捉えておられ、観察、考察、洞察をされておられると思います。
その時は、その時で100%の力であったからこそ、それでまったく問題なく、その時の正解であります。また100%の力を発揮できるくらいの背後には自信があるから、それがどのジャンルであろうが周囲からはカッコよく映ったり、美しく見えます。
例えば、小学生が両親の似顔絵を描いたものは一般的には下手と判断されますが、受け取る両親は感動します。
これは、心を込めて打ち込んでいるかの違いであり、下手でも上手でもどちらでもいいと判断され、ようはその時の気持ちが真剣であるかによって受け取り側は変わるものです。
『知行合一』はご存知と思いますが、「知識と実践は一体であるということ。また、知識があっても実践をしなければそれは本当の「知」とはいえず、知識に実践が伴ったものが本当の「知」であるという考え方。」
真言密教では、顕密両翼とよくいうものでして、飛行機なども同じように片翼では飛ばない。同じように知識だけを豊富にするのでなく、実践してこそ知識と合致する100%の力を発揮できる自信へと変化するものです。
知識にともなう実力(実践)が発揮できる心境があれば、周囲と比べることもなく、意識することもなく、時間が経過しようと成長していようとも美しい思い出となり、納得できる自己が存在していくことです。
わたしも拙い、分かっていることを繰り返し伝えているだけと思います。また他の僧侶さまからの返答も待ってください。
合掌
質問者からのお礼
ありがとうございます。お陰で気持ちが楽になりました。