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愛猫を火事で亡くしてしまいました。

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初めまして。
1人では抱えきれなくてこちらに質問させて頂きました。
自分は去年に火事で愛猫7匹の命を奪ってしまいました。原因は寒さ対策につけていたヒーターからの引火です。

あの日から自責の念にかられ、あの子達の姿を思い出しては胸が張り裂けそうになります。
恐怖と苦しみの中死んでいったあの子達に申し訳なくて謝っても悔やんでもやりきれません。

燃える家を見て泣く事しか出来なかった最低な自分が気持ち悪いです。
あの時こうすれば良かったと後になって思っても突然の非常時でとっさに体が動きませんでした。
あれだけ大好き、我が子同然と言っておきながら見捨ててしまったのです。
出来るなら自分の命と引き換えにあの子達を生き返らせて欲しいと、何度も何度も考えてしまいます。
のうのうと生きてる自分が腹立たしいのに、どうすれば良いのかも分かりません。

もっとたくさん色んなことをしてあげたかった。
今更遅いと思われるかもしれませんが、亡くなってしまったあの子達に今出来ることなどはありますでしょうか。

悲惨な最期をとげたあの子達は苦しみから解放されているのでしょうか。
あの子達の魂はどうなっているのか、生まれ変わる事など本当に出来るのか。
そして最低な事に1匹の遺体だけ見つけてあげる事が出来ませんでした。
火葬も出来ず御骨も無くひとりぼっちのままあの場所でさ迷っていたらと思うと自分も死んでしまいたくなります。
他の6匹の御骨はあるのですが、あの場所に取り残された1匹の魂はちゃんと一緒に天国に行けたのでしょうか。
みんなこの世にさ迷っては居ないでしょうか。

最後に、自身の過失で殺してしまった自分は死んだ時にあの子達に会えますでしょうか?
恨まれても拒絶されたとしてももう一度会って謝りたいのです。

読みにくい長文なうえに質問ばかりですみません。
お忙しいとは思いますがどうかお言葉を頂ければ幸いです。

2024年1月26日 4:25

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

七匹の聖なる精霊 七人の仏様

火災にあわれてしまったこと、本当に大変なことでしたね。
大切なものも沢山無くされてしまい、さぞかし悲しい日々を過ごしてこられたことと思います。どうか喪失感、悲しみから少しでも立ち直って、前に進んでいただくためにも、あえて心を強く!持ち直していただきたいと思います。
かわいがっておられた猫ちゃんたち。
もう会うことはできないとは思わないでください。
心の中でこれからもあなたを支えて導いてくださる七人の仏さまとして敬ってあげましょう。
沢山の思い出があるはずです。
楽しかった思い出があるはずです。今も招いているのです。
火災は人間の力でもどうすることもできません。
全国各地で火災にあい焼失してしまったお寺もあります。
当山も昔火事にあったそうです。生活できな人が縁の下で焚火をしていたそうです。曹洞宗の本山の祖院も火事にあいました。
そんな中でもみんな強く生きた。強く立派な志をもった。火事火災による消失で終わりとせず、なにくそ負けてたまるか!( ゚Д゚)と奮起されたのです。怒りは悪いものではありません。不動明王様も怒った顔をしていますが、人々を安らかな世界に導くためには時には厳しい顔も必要なのです。あなたに今必要なこと。その悲しみを断ち切るため、あえて怒りのエネルギーを転じて奮起すること。そして、かわいそうな猫ちゃんたちの為にも泣いてばかりでゴメン立ち直るね、と約束。自分の悲しみも家族も救うよ、と今までの以上の強い心をもって前に突き進むこと。
仏教では苦しいことをより良い方向へ、悪いことは良い方向へ、暗いことは明るい方向へ導く精神力を菩提心(ぼだいしん)というのです。
どうか菩提心を強く!持ってください。
菩提心とは、こんなくよくよする自分も救ってやるぞ!
死んじゃった猫ちゃんたちもいつか弔い、救ってあげるねと救済の精神を持つことです。
古代インドではわが子がワシに連れ去れてしまうという痛ましい事件もありました。そんな不幸にあわれた母親でも菩提心をおこして仏の教えを学ぶことで、安らかで聡明な心に目覚めたという記録もあります。
今日から貴女がかわいがっておられた七匹の猫ちゃんたちを七人の仏様、尊い精霊(しょうれい)さまとしてお祀りすることをお勧めします。亡くなったままにさせず、これからも導いていただき、心が休まる方へと招いて下さるように心の中でお祀りし敬ってあげてください。

2024年1月26日 9:50
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答ありがとうございました。
貴方様のお言葉で少し救われた気がします。
今はまだ罪悪感とごめんなさいの気持ちでいっぱいですが、いつかあの子達の思い出を泣かずに思い出す事が出来るように前を向いていきたいと思います。
本当にありがとうございました。

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