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昨日の死刑判決にて思うこと

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有り難し有り難し 22

私は32才の男性です。

昨日のニュースで、被告人が死刑判決を受けたというのを見ました

私のなかでは当然のことだと思うのですが、なにかモヤモヤする気持ちになりました。

自分は精神障害を患っています。そのせいか、自分が死刑を求刑されたらどうなるのか
と考えてしまいます。
殴ったこともしたことない自分ですが、時折恐ろしいことを考えます。

人を殺めないかという、変な心配をします。
自分でも、よく分からない感情ですが、この感情とどう向き合えばいいでしょうか?

2024年1月26日 12:15

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

想像すれば感情も動く

ニュースやドラマ(フィクション)を見て色々な想像や思考を巡らし、感情が刺激されることは、誰にでもあります。
ジョギングすれば息が切れるのと同じです。
原因があって結果(影響)がある。
ただそれだけ。
ジョギングが終了すれば息も落ち着くし、想像(妄想雑念)を終了すれば感情も落ち着く。
自然現象だから、特に何か対処する必要はありません。
映画の映像はスクリーンをさまざまな色に染めますが、映画が過ぎ去ればスクリーンは真っ白な布に戻ります。
感情も、心のスクリーン上で一時的に上映されるだけ映画だと思いましょう。

2024年1月26日 12:35
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

心のもやもや=衆生を救う 内なる迷いの心を救う

心の中の晴れない迷いを衆生(衆生)といいます。
衆生とは迷い苦しむ人々や生きとし生けるすべての存在という意味もありますが、内なる迷える子羊ちゃん🐑的な思いも衆生といいます。
「善知識よ、衆生は無辺なり、誓って済度せんと願うも、慧能が度するにあらず。善知識よ、心中の衆生を、おのおの. 自身の自性(仏性・仏のはたらき・仏の作用)により自ら度すべし。」『六祖壇経』より一部改

貴方自身が心の中でこうなったらどうしよう、もしこんなことになったらどうしようという不安の心があるとします。
それをかわいい子羊ちゃん🐑シュジョー(衆生)と名づけてください。
シュジョーは飼い主であるあなたが迷っているとなついてきません。そっぽを向きます。
シュジョーは時折ヘンナコトを考えたり、変な行動を起こしますが、ちゃんとした向かわせ先があると妙(めぇ~)と鳴いて尻尾を振ってとても喜んだ顔をします。
あなたのその迷いの心シュジョーを三つに分けましょう。
1精神障害を患っている🐑
2死刑になったらどうしよう🐑
3人を殺めたりしないだろうか🐑

この三匹の羊シュジョーABCが喜ぶように答えを自分なりに出してください。
私なりに助言をいたしますと、
A精神障害といっても、おおよそ日常生活に支障をきたすことがあるとして、困るということがない限りは「身心の活動」は健常者と変わることはありません。だから自分は障がい者だと思ったとしても、そこに消極的でネガティブな意味を持ち込まないようにするとよいです。リスクがあるのは事実ですが、それは悪いことではありません。私も今日はケガで車いすです。
B死刑になったらどうしよう。🐑
そんなことにならないように行いを清く正しくやさしく。穏やかに。
仏の十戒を守ることは、行いがおのずから優しく、悪いことをしないようになりますから、日常生活の指針にいたしましょう。
1傷つけない
2盗まない
3男女共に敬い尊ぶ
5偏った考えに執着・依存しない
6人を責めない
7思いあがらず謗らず
8分かち合う
9怒りで理性を見失わない
10仏法僧を重んじる
C人を傷つけたり、殺めることはあなたもそれをされたら死刑同様嫌なわけですよね。だから、それは絶対にしないほうがイイから、絶対にしてはいけないことだと強く念じて、どんなに感情的になっても人を殺めるようなことはしないと自分の本心に誓う。

2024年1月26日 15:44
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます
自然なことだと思うと、気が楽に
なりました。
このような悲惨な事件がおきないように
また、自分がそうならないように
日々に感謝して生活しようと思います。

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