hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

恨む心

回答数回答 2
有り難し有り難し 30

人を恨んではいけない。恨めば自分に返って来るとよく耳にします。
忘れたい、記憶から消してしまいたいと思うのに、ふとした瞬間に頭に浮かび恨みの気持ちがわいてくる。
出来れば私も恨みを抱いている対象と自分を切り離し、負の感情を捨てて自分を必要としてくれる大切な人とだけ関わっていたいです。
忘れよう、気晴らししようと努力はしているつもりですが、簡単には出来ません。

そもそも恨めば自分に返るというのは、誰かを恨む人が悪いみたいに思えますが、恨まれる様な事をした人が悪いのではないのでしょうか。
原因が無いのに人を恨む人などいません。
優しくしてもらえたら嬉しいのと同じで、長年辛い目に遭わされたら、自然に沸く感情なのではないでしょうか。

2024年1月31日 12:37

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

恨みの感情をなだめるように

あかり 様 

恨む感情が湧いてくるのは当然かと思います。それだけ痛い思い・辛い体験をしたのです。トラウマになって脳に記憶として残り、何かがきっかけとして、フラッシュバックし、その時の身体の感覚と共に今体験していないにもかかわらず、思い出され恨みを募らせていくのです。
恨みを思い出し募らせる人は、そのままだと心は軽くならず辛いままで、心が疲弊し、恨む相手より、自分を責めるのです。「こんなんじゃだめだ。恨みを持っちゃだめだ、恨みを持つ私は悪い」と自己嫌悪に陥るのです。何も自分自身は悪くないのに。
あかり様が自己嫌悪まで陥っているとは思いませんが、恨みを持ち続けるのはこの先も辛い思いがついて回ると思います。
ですので、恨みの感情が湧いてきた時に、「恨みさん出てきてくれてありがとう。出てきてくれた恨みさんは私に何の教訓を示してくれるのかな」と、恨みの感情を受け止めて、恨みを客観的に眺めるようにして、恨みの感情をなだめるように、やり過ごすというのが、抗わずに生きていけることかなと思います。

恨みの原因の相手はやがて報いを受けるとおもってそれ以上は関わらない方が良いでしょう。もし身近な関係が続いて、心がモヤモヤするときは、物理的な距離もそうですが、心理的な距離をしっかりとるようにしましょう。
参考にしてください。合掌礼

追伸:早速にお礼メッセージありがとうございました。辛い時や苦しい時はどうぞ遠慮なく、引き続きご相談ください。この度のご縁に感謝申し上げます。再礼

2024年1月31日 19:35
{{count}}
有り難し
おきもち

個別相談可能
お寺の法務(法事などのご先祖の供養)と 唱題行・写経・法話・カウンセリング、コーチングなどで活動しています。 メールでの相談も受け付けています。hasunohaの回答後のフォローアップはメールで致しておりますので、メールでお問い合わせください。また面接でのカウンセリングセラピーをご希望の方もメールで連絡をお願いします。 honsyoji.sk@ddknet.ne.jp へどうぞ。
昼間は、ほとんど法務に出ておりますので、夜の応対になります。 できれば、事前にメールで相談内容を教えていただければ、スムーズなセッションになるように思います。 プライバシー、相談内容の守秘義務は遵守いたします。

恨 もどかしさを確かな理由で明らかにして晴らしたい

恨みという心理は自然なものです。
仏教とは別に人間本来の正直な心情まで否定するものではありません。
ドラマでも「消せない私」「夫を社会的に抹殺する5つの方法」「極限夫婦」など復讐モノがアツいそうですが、世の中、理不尽なことだらけだからでしょう。
昭和平成でも『忠臣蔵』は正当な復讐モノでしたし、藤子不二雄氏の漫画でも魔太郎君といういじめられすぎる恨みすぎるマンガもあったぐらいです。
よって、酷いことをされたら怒る、許せない、恨み(# ゚Д゚)🔥コノウラミハラサデオクベキカ…!🔥怨念の心理も天然の自然な心理なのです。
ですが、恨みの心理はやはり不健全。解決法を間違えば自分や人を傷つけるようになるから不健全といえましょう。
人を呪わば(墓)穴二つ。
人間の脳は主語の特定がないから、いくら人を恨んでもその恨みの毒素で自分の脳にダメージを与えるという面もあるのでしょう。恨み心理は残念ながら心理的な毒素汁になって身心に害が起こってしまうので、正当に裁きを下す態度が良いと思います。
たとえば近隣国では反日教育といい、日本=悪者というイメージを国民に植え付けて国民の結束力を高める心理を植え付ける教育があります。その結果、日本にいるその国の人たちまでもが敬遠されるようになっています。いいこと一つありません。恨みはどんな弊害があるでしょう?
・自分や誰かを傷つける。
・今更変わらないことで今や理性を見失う。
・正義の心理で相手を傷つけようとする。
・結果、こちらも加害者に。
・不健全な心理で心がダークに
あなたもそこまで恨むからにはそれなりの非道いことをされたはずです。
ならば、忠臣蔵のように喧嘩両成敗で自分も最終的に打ち首になってもいいという覚悟でもない限りは、相手を恨んでこちらも人生棒に振るよりは、より豊かな解決方法を探すべきではないでしょうか?晴らしたくても晴れない心理、もどかしさは、自分が傷つかないような別の形で解決をすればよいのです。
ではどうすれば?
👉まず人間は誰もが未熟で未発達ですから、完璧さや高い人間性を相手に求めてもそれはかなわないと知る。
相手に何を要求しているのかを微細に追及する。
相手を殺せば満足するのか?何をどうすれば本当にあなたの苦しさが納得するのか。どうしてほしいのか。そこを相手に危害を加えるという形でなく、法的に、別の形で追求してみましょう。

2024年1月31日 19:41
{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答ありがとうございました。

私の気持ちに寄り添った回答をして下さり、読ませて頂いて涙が出ました。
アドバイスして頂いた事を心に刻み、物理的にも心理的にも恨みの対象からしっかり距離を置いて、自分が明るく、穏やかな気持ちでいられる人達を大事にしながら生きたいと思います。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ