人間関係のトラウマからの決別
過去の子どもの幼稚園時代のママ友達とのトラブルでトラウマが消えません。
色々な行き違いがあり、信頼していた人に裏切られ孤立する体験をしました。
不本意ではありますが、謝罪し、お互い子どものためにも引きずらないとなり、表面上は大人な関係を築いていますが、その後5年経過した今でも1人1人の方とは関われますが、学校行事で集団で楽しそうに過ごすママグループに遭遇する度に、見下されているように感じたり、1人でいる私が情けなくなったりで、子どもを見たいのに、心がざわついて落ち込んでしまいます。
新年度始まりましたが、今からまた学校行事で会うかもと思うだけで気が重く、正直参加したくないです。
子どものためにはいい加減強くなりたいです。 どうすれば、過去のトラウマから決別出来るでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
反応しない練習をやっていきましょう
拝読させていただきました。
相手が動向を意識しているうちはトラウマから離れることはありません。
いろいろネットや書籍や心療内科などでも答えはもらえるが、とらりゅうさんが納得したものの「でもな...」などと感じるのではないでしょうか。
動かないものであれば、こちらから移動すれば見えない所に移動できます。
しかし、人は動きます。なにが動いているのか?行動ではないのです。心が動いているのです。
他人の心は、常々 動いているからこそ捉えることも難しく、捉え所も難しいのです。
そうならば、「反応しない心」に時間を費やすことのほうが手っ取り早いのです。
相手の動向を伺っていては、いつまでも変化することはないのです。相手が実際に子どもの成長などで、親同士の関係性が薄れたり離れたりしたとしても、また子どもの関係に限らず、同じような境遇にでくわしたときには、同じように気持ちになるのです。
人の感情は、仏教では「五蘊(ごうん)」より生じていると説きます。
五蘊を簡易にしますと
①眼で見るもの
②耳で聴くもの
③鼻で匂うもの
④舌で味わうもの
⑤身体で感じるもの
この五つの五感を感じる境界線にあるのが五蘊である「色・受・想・行・識」です。
釈迦の弟子に阿難陀という方がいました。それはとてもイケメンだったと説かれています。その阿難陀が「托鉢(修行)」に行くのですが、とても心苦しくなったのです。
なぜか?阿難陀は、托鉢に出かけるものの多くの女性から誘いを受けることで苦悩を感じるようになったのです。
そこで阿難陀は釈迦に相談しました。
「女性が言い寄ってくるので修行の邪魔になるのです。」
そうすると釈迦は阿難陀にこのように言いました。
「見るな!!聞くな!!」
釈迦が阿難陀に言った説法は、これだけです。
見るから心が動く。聞くから心が動く。
一度、染み込んだシミが簡単に取れないように、付着してしまったトラウマを取るにも簡単ではありません。
ここからが「修行なんだ」と思える とらりゅうさんが感じるならば、あとは「反応しない練習」を積んでいくのみとなります。
頭の中に、トラウマが浮かんだら、反応しないと自身に言い聞かせてあげてください。やさしく、何度もです。
それを繰り返していくのも見えない心を鍛錬させる練習なのです。
練習は、プラスもマイナスも共に成果を上げていきます。
質問者からのお礼
法源さま
回答ありがとうございます。
おっしゃる通り、色んなアドバイスを受けたり、時間が解決するよと言われたりしましたが、結局行事の度に気持ちが何も落ち着かないままでした。
反応しない練習
私が1番してこなかった事だと思います。
周りとついつい比較して、羨ましくもないのに羨ましく思ったり、相手の気持ちを勝手に想像して1人で疲れたり。
でも、ここ最近はその人達と離れたからこそ
お話できたり、優しい方に癒やされたりする事もありました。
今、私がすべき修行を分かりやすく説いて下さりありがとうございました。