hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

仕事つらい

回答数回答 1
有り難し有り難し 18

私は4時間勤務でも長いと思っています。
今まで一時期を除いて、きちんと長く働いた経験がないのでそう思ってしまいます。

寝るのが大好き。疲れやすい。飽きっぽい。
小学校から不登校で、毎日きちんと通う訓練ができていない体なんです。

そんな私が、寮生活のようなものをし、
ルールで、きちんと働かないといけなくなってしまいました。
お金がないわけではないのですが、
守らないと追い出されてしまうでしょう。

こんな私が毎日4時間働くにはどうすればいいでしょうか?

何か工夫があれば教えてください。
昼休みに趣味の何かをするとかどうですかね?
他にも何かアドバイスがあれば教えてください。

ちなみに疲れたら休憩してもいい職場です。
それでも長いと感じます。

2024年5月1日 14:11

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人は今その時、そこを生きていれば時間の前後も長さも超える。

これは賢く仕事をこなすためのチエです。分かるまで何度も読んでください。
私は一人で千枚以上の皿を洗う仕事についていた時この気づきを得ました。それは思考より事実を優先する実践の実験だったのです。
人は何か長い労働やきつい労働は嫌なものですよねぇ。
でもやらなければならないことがある。
そんな時はこれを実践することです。
人は自分に縛られるだけです。
あと5時間働かなければならないとか、
あと900枚の皿を洗わなければいけないということを頭で考えちゃうから人間はその条件付けに縛られてしまうのですよ。
目的地の駅まで25駅以上あるとか「考えると」道は遠く感じますよね?
あと1000歩以上歩かなければならないと「考えると」遠く感じますよね?
それは自分の手をみていない。今の活動をみていない愚かしい姿なのだと知ることです。
たった今そこでやっていることだけに集中をすることこそ大事なのだと気づいて実験してみれば納得できるのです。階段を上るときに階段の数を数えれば無駄な脳内労力が生まれます。その時の私は皿を洗う時、一枚一枚を洗うだけでした。只管にウォッシュ。仏弟子として、舎利子シャリシではなく皿洗い師シャラァラィシになっていたのです。
その時、脳内仏さまが皿を洗う皿洗い師の私にかくの如く説かれました。
「皿洗い師ヨ、色は空にほかならず、空は色にほかならない。」
一枚一枚の皿というあらわれ(色)は現れては私の手によって洗われ、一枚一枚すすがれ、消えていく。空じられていく。現れ、現れて離れていく空なるウォッシュが色=現れの本質なのです。
今の皿を手にしているときは前の皿を手にしていないのです。次の皿も手にしていないのですよ?当たり前の話と思うなかれ人はここを見落としていながらまだ800枚もある…とか、あと4時間もある…とか頭で「考えて」とらわれているのですよ。
その時私は私がお皿でお皿が私で仏が我に入り、われ仏に入るの境地で仏の教えの如くに生きる舎利子=皿洗い師となって時間も忘れ枚数も忘れて全身仕事マン。全身がお皿になっていたのです。このように人は仕事に打ち込んで考えを離れるとまっさらな無垢清浄の心になり、仕事がさほど苦になりません。気が付くと皿洗いは終わっていたのです。マジカ!と言わんばかりにまっさらキュキュットになっておったとです。ぜひ今晩チャレンジJOY。実験してみてください。

2024年5月1日 17:32
{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

参考にさせていただきます。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ