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さすがにもう幸せになりたい回答受付中

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有り難し有り難し 30

不幸自慢のように思われてしまうかもしれません。けれど、どれだけ不幸であったか、不幸であるかということを書かせていただきます。

小学生のときに転校してから、今までずっとずっと、死にたい死にたいと思いながら生きてきました。

いいかげんに幸せになりたいです。

転校した初日に母に言った言葉は死にたいだったそうです。私は覚えていないのですが……

その日から学校にいても家にいてもしんどくて、生きていることが辛い、消えたいと思う毎日でした。

実際はしんどくないのに死にたいと言っているかというとそういうわけでもありません。

小学生の頃は人の目が怖かったです。場面かんもく症といって、学校関係の場面では声が出ずに話すことができませんでした。前を向くこともできず、首が痛くなるほど下を向いていました。

小学生の頃には父からの性的な暴力が何度かありました。今はもう一緒に暮らしてはいませんが、親子関係は続いています。ですが父親として認めることはないです。

中学生は不登校で、少しだけ通いましたが、授業をまともに受けられないし、下ネタが飛び交う荒れた環境でした。1人の子からブサイクだ、存在が気持ち悪いといじめられたこともあります。机をぶつけられたりもしました。

高校生の間は、転校してからの人生で一番穏やかなときでしたが、やはりブサイクだ気持ち悪いと言ってくる人はいました。辛いことが重なった結果うつ病になりました。

こうやって書いていると、あまりしんどくなさそうだなぁと思われるかもしれません。

ですが本当に心がしんどくて、生きることが苦しいんです。

最近は支えてくれていた母もしんどくなってきてしまって、ケンカが増えました。私が責任を押し付けて、母のことを尊重できていません。

私の命はなぜあるのだろう、苦しむためにあるのかなと感じます。

変な話、嫌に思われるかもしれないのですが、小さい頃に悪いものに取り憑かれたことがあるみたいなんです。有名な厄除けのお寺でよくしてもらいました。

その悪いもののせいで辛い人生なのかなって、悪いものに責任を押し付けたくなります。

生きることは苦しみであると仏教は説いていますよね。

幸せになれるって言って欲しい気持ちもあります。

長年苦しんだから、幸せになれますか?
人生に希望が見えなくて、希望を見せて欲しいって思ってしまいます。

2024年5月5日 1:25

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

心の病が気持ちを覆っている。晴れていくように取り払っていこう

今までの質問も読ませてもらいました。生きてこられた環境に、休まる安心の場所が無かったように思います。
人は、必要とされ愛される温もりを感じながら、そこが安心できる場所だと実感できてこそ、周りを受け入れていけます。そうやって、身近な安心を広げていきます。例えば、家族や家庭、学校などね。そして、自分の気持ちを出せたり、想いを表現出来るようになって、人間関係を築き、生きる社会を広げていきます。

ですが、あなたの生きてこられた環境は、家庭にも学校にも安心が無くて、虐げられ、怖い場所だったように思います。不安な社会(学校)に出ていくのは、緊張や恐怖も大きかっただろうと思いますし、だから声も出ず鍵を閉めてしまったのでしょうね。家でも虐待を受け、ずっとひとりで耐えてきたのかと思うと、もう疲れて心が弱ってしまうわよね。死にたいと助けを求めていたんだよね。辛かったわね…。悲しくて、怖かったわよね。

心が弱っているときは、どうしても気持ちが下向きになりますが、心の病があなたの気持ちを覆ってしまっているから。少しずつ晴れていくように、取り払っていきましょう。
ハスノハにも、いつでも繋がって。こうして一緒に話をしましょう。
あなたの味方よ。幸せになっていきましょう。
あなたの手を、ちゃんと繋いでいますからね。

2024年5月5日 19:13
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有り難し
おきもち

はじめまして(*^^*) 中田みえです。 教善寺 住職として、母親として...
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脳・神経のぎっくり腰

自殺者の9割は「うつ」等を患っていると言われます。
「死にたい」の直接的な原因は、不幸ではなく脳・神経の体調不良によるものではないでしょうか。
どんなに幸せな人生でも、ぎっくり腰になりやすい人はいます。
ぎっくり腰になったらまともに動けなかったり重い荷物を持てなかったりします。
あなたの場合は、脳・神経のぎっくり腰になりやすい体質だと考えてはどうでしょうか。
たとえば、あなたは江戸時代のお姫様が食べたこともないスイーツをコンビニで買えますから、人類史の中ではかなり幸せな方なのです。
しかし、脳・神経のぎっくり腰のせいで、明るい気分になれなかったり、ネガティブな想像をして悲観的になってしまうのかもしれません。
それは、たまたま脳・神経が弱い体質なだけで、人それぞれに弱い部分(故障しやすい部分)があるのです。
少年時代にスポーツを頑張りすぎて肘を痛めている人がいるように、あなたの脳・神経の弱さにお父さんからの虐待の影響があるでしょう。
あなたのせいではない、あなたは悪くはないのです。
ですが、肘が弱い人、脳・神経が弱い人、胃腸が弱い人など、その人のせいではなくても何らかの理由でそうなってしまったら、そのような自分の体質と付き合って生活しなければなりません。
そして、生きている限り誰にでも苦しみ(不満、解決すべき宿題)が毎分毎秒あります。
息を吸った人には息を吐きたいという苦しみが生じ、息を吐いた人には息を吸いたいという苦しみが生じる。
生き物から苦しみは無くならない。
瞬間ごとに苦しみの形が変わっていくだけ。
それが普通なので、不幸ではないのです。
「幸せになりたい」と言う人は、毎分毎秒の苦しみが無くならなければ不幸だと思っているのかもしれません。
呼吸をしなきゃ苦しいし、ぎっくり腰になったりするし、苦しみは尽きないけど、昔の貴族が見たこともない映画を見られる。
「幸せになりたい」を「すでに幸せ」に言い変えてみましょう。

2024年5月5日 3:08
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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幸せになれる。

イルカの目さん
お悩み拝見させていただきました。

これまで辛い過去を歩んでこられましたね。よく今日まで生きて来られました。
よく頑張ったね。

タイトルで書いてくださった
「さすがにもう幸せになりたい。」
に全てが込められているように感じます。

心の深いとこから出てきた本音の部分なのでしょう。
こちらの心にも沁みてくる重さがありました。

さすがにもう幸せになりたいのですよね。

イルカの目さんは、幸せになって良いのです。

絶対に幸せになれます。

ただ、いざ目の前に幸せが来たとしても今のままだとなれない可能性があります。
なぜでしょうか?

「自分が幸せになる事を許可できないからです。」

イルカの目さんは幸せになって良いのです。
幸せになる事を自分に許してあげてください。
そんなに切実に願っているのです。
あとは、受け取る事を許可してあげるだけ。

仏教だと、唯識と言う考え方があります。
全ては心が作っていると言う考え方です。

ですので、幸せになれますか?という質問には、
絶対になれる。と言い切れるのです。

幸せだと思えるようになれば、誰もが幸せになれるのです。

とは言っても、
うつ病の時は通常の思考をするのは難しい傾向にあります。
心が弱いわけではなくて、脳のバグなのです。
私も経験者ですので、痛いほど状況はわかります。
ある程度うつ状態が改善されると、少しだけ前向きに考えられるようになります。

今は、どうか、自分を許してあげて。
そして、頑張らなくていいから、
こうやって溜まった気持ちを誰かに吐き出してください。

イルカの目さんの心が少しでも軽くなり温かい光に包まれるようお祈りしております。
南無阿弥陀仏。合掌。

2024年5月6日 1:34
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有り難し
おきもち

初めまして。プロフィールをご覧いただきありがとうございます。 ◆浄土...
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質問者からのお礼

みなさんありがとうございました。

お一人ずつお礼を書くことができず、ごめんなさい。まだ心のまとまりがないのです。しばらくはご回答いただいたものを読み返してみます。

しんどい気持ちを受け止めていただいたことでひとまず気持ちが和らぎました。
ありがとうございます。

「自分・人生に絶望しています」問答一覧

親族への不純な優越感

お世話になっております。  若い頃、散々伯母と共に馬鹿にしてきて屈辱を与えてきた従弟が 30代でハゲはじめ、現在数年間無職です。数年ぶりに訪ねたら怒鳴り合いになり、自分を散々いじめてきた伯母も、もはや彼は手に負えなくなっており、 自分に嫌味を言うのがやっとと言う感じで哀れでした。  さらには高校生の頃「お前はどうして、背が伸びないんだ。可哀想でよ~」と、執拗に言ってきた父の二度目の浮気が発覚し、大騒ぎとなりました。 自分は親族の中で一番背が低く、170cmにも届かず、他の兄弟や従兄弟、伯父や父に至ってもきちんと170cmを越えており、上記の従弟に至っては180cmあり、本当に悔しくて屈辱でした。 ちなみに父は自分が嫌がると知っててテレビに出て来るイケメンやモデルを 「おっ!背、高いね~~!!」とわざと声高々に言い、自分が怒るとさらにバカにしてきて、終いには「父親に対してなんだその態度は!! お前が規則正しく生活しないからチビなんだろ、バカ」と暴力を振るって、押さえつけて来るような男でした。実はこの時一度目の不倫中だった上、自分が逆らうからと食事を別の部屋にさせられることもあり、大変悔しい思いをしました。学校が辛かった事も拍車を掛けました。  そこで二度目の不倫の決定的証拠を抑えた自分は、父がそのような事を言うたびにわざと、父が不倫相手に当てたラインを「○○、愛してるよ、ってか?」と音読すると一発で黙るようになりました。どんなにやめてくれと母と共に頼んでも、やめようとはしなかったにも拘わらず、です。その後も何度かその応酬が繰り返された結果殴り合いになり、負けそうになった父は包丁を持ち出して来て、ほとほと情けなく思えました。  そして、その思いの丈を理解してもらうべく、周囲に思いきり語ると男が下がるからやめろ、などと否定されます。その通りだと思います。しかし、思春期に受けた屈辱、悔しさから何とか持ち直したところ相手が同じような目に遭えば、この嬉しさを言わず、笑わずにはいられないのです。  その内自分にバチが当たるような気がするのですが、このストーリーを他のどなたかに伝えずにはいられず、語らせて頂きました。この不純な高揚感を受け止めた上で、自分を戒める説法があればお聞かせ願いたいです。そして、このようなことを人に語らず生きていけるようになりたいです。

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応援する資格がもうない

こんにちは。 私はとあるアーティストが好きです。そのアーティストについて呟いたりファン同士で交流する用のツイッターがあります。 私は所謂同担拒否の方が苦手です。自分の存在が否定されているような気がするのです。そのアーティスト自身も同担拒否について苦手意識を持っています。その方の歌声に惹かれて応援し始めたのは事実ですが自分と同じ考えを持っていることにも安心できたため応援をしていました。また「あくまで自分は恋愛感情を抱かせる売り方はしていない。恋愛対象とするのであれば別のアーティストを探してください」と公言している程です。 数年前のことです。私はツイッターでたまたまアーティストの同担拒否の方を見かけてしまいました。またその方はアーティストに対して恋愛感情を抱いているといったツイートも本人に直接発信していました。 私は怒りと同時に動揺もしてしまいました。私の存在が否定された、アーティスト自身が公言したことも無視しているとそう感じてしまいました。 またその同担拒否の方は友達募集のツイートもしており「同担需要ない」といった文言も含まれていました。 そして私はとある掲示板にアクセスしました。ファンがマナーの悪いファンを批判しているような正直に言うと雰囲気の悪い掲示板です。そこの掲示板では既にその同担拒否の方が取り上げられており「恋愛対象とするなら別のアーティストを探せって公言されてるのにありえない」「アーティストに対しての返信もかなり失礼」と書かれていました。私は何を思ったのかそれに便乗してしまいました。「〇〇って奴のタグ(友達募集のツイートのこと)が不快。お前の方が需要ない」と書き込んでしまいました。ですが私の書き込みを気に留める人はおらず、そのまま別の方の批判で流れて行きました。当時の私は発散ができればよくそれ以上書き込むことはありませんでした。 ですが数年経った今ふと思い出し罪悪感に苛まれています。書き込んだのはその一回だけでしかも私の書き込みを気に留めていなくてまたその掲示板も書き込める上限に達し別のスレッドが作られている状態ですがここ最近ずっとそのことで頭がいっぱいです。私はもう応援する資格がないと感じています。お相手は今は同担拒否ではなくなっているようですがツイッターは非公開になっており内容は確認できませんでした。 私はこの罪悪感とどう向き合っていくべきでしょうか。

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楽しかった過去を思い出してしまい苦しい

初めて相談させて頂きます。 文章の構成などめちゃくちゃだと思いますがご容赦ください。 私は20代、社会人の男です。 タイトルにある通り、楽しかった過去を定期的に思い出してしまいその度に苦しくなってしまいます。 きっかけはいろいろあるのですが、昔の友人から連絡があった時や、ふと過去の写真を見つけた時、はたまた仕事で辛いことや受け止め切れないことが起きた時などにそうなることが多いです。 前者であればまだ「あの時はいろんなことがあったなぁ」とポジティブに懐かしむことができるのですが、後者の場合(仕事で辛いことがあった時など)が非常に厄介です。 もともと私は要領が良い方ではなく0から物事を考えることも苦手なのですが、今の仕事では覚えることや考えることが非常に多く、いつも上司に怒られてしまいます。 いつも迷惑をかけてしまっているな、と落ち込む毎日です。 普段はなんとか自分なりに前向きに取り組み心もリカバリーできるのですが、 自分の中で限界になると「昔は楽しかったなあ」などと現実逃避してしまいます。 それがタイトルにも書かせていただいた状態であり、今まさに陥っている状況です。 こうなると目の前の物事に向き合う事も難しく、具体的には過去のメッセージのやりとりや写真などいろいろ漁ることに夢中になってしまいます。 しまいには、「なんとかあの頃にもう一度戻れないだろうか」と本気で考えてしまいます。それは絶対に無理だとわかっているからこそ、とても苦しくなるのです。 結婚しており趣味も楽しめているため、プライベートは充実していないわけでは決してないと思うのですが、どうしても仕事で辛い状態が続くとそういったドツボにハマってしまいます。 こういったときに私はどう向き合うべきなのでしょうか? 人間誰しも過去を懐かしむことはあると思うのですが、皆様はどう向き合っているのでしょうか? 今は将来どころか目の前も見えず、ただ過去に固執してしまっている状況です。

有り難し有り難し 4
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普通の家庭への羨望、前向きにがんばれない

あまり一般的とは言えない家庭で育ちました。 親は共働きですが父親が働いたお金をすべてギャンブルに注ぎ込むため、生活費や学費がなくなり子どもの私や姉が高校に入学すると同時にバイトを始め母と一緒に生活費を工面する生活でした。高校卒業時に全部自分で責任を背負うことを決め家を出て、大学に進学しました。そして海外の大学院に進学し今に至ります。 現在私は30歳になり、海外で自分がずっとやりたかった仕事ができています。 それは子どもの頃からの地獄のようなアルバイトの生活とこれからの奨学金の返済義務を犠牲にやっとこの場所に立てているのです。なのにただ何もかも用意された環境で育ち、困ったことがあればすぐに頼れる実家や家族がいて、お金の心配をする必要なく日々を前向きに過ごせている周りの友だちが羨ましくて仕方ありません。 その上「逆境こそがんばらなきゃ!貧困を努力で乗り越えた人たちはたくさんいるよ!」「もっと賢い方法でお金を稼ぎなよ」と子どもの頃から何不自由なく育った人たちに言われても、素直に受け取れません。 周りからがんばれと言われても、そもそも子どもの頃から全部自分で稼いできた人が存在すること、親に頼れない家庭が存在することを知らない人ばかりで実際私の立場は誰にもわかってもらえないことと、周りとのスタート地点の大きな差をただただ思い知らされて心が折れそうです。 「確かにあの時もっとかんばれたんじゃないか?あの時少し怠けていたんじゃないか?」など自分の技量不足や努力不足も疑い始めました。でもこれでも立ち止まらず、立ち止まれずに心と体をぐちゃぐちゃに壊しながらも今まで一生懸命やってきました。 これからももっともっと前向きにがんばってお金を稼がなければなりません。それなのに私は今も周りの生まれた環境を羨み、比較して、なぜ私は今までもこれからもこんなに苦しまなければならないのかと絶望してしまいこれ以上がんばれないままでいます。 周りとの生まれの違いを気にせずに、どうやったら前向きにがんばれるでしょうか?

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ