何もかも嫌に
一年かけて、自分の人生を納得いくものに変えたいと奮闘してきたつもりでした。どれも小さくですが考えて行動し失敗と挫折もあり、経験と勉強になり為になったとは思います。結果としては自分は大きくは変われない、今世では理想の自分になるには無理だと感じています。なにより気落ちしてしまったと感じています。
じっとしているのが苦痛ですが動くとすぐ疲れます。来月からはお金のために働く予定です。好きなことで稼いでいきたかったけど、何も考えずただ体を動かして苦しいことを忘れたいです。一年前と何一つ変わっていません。一年間、遊ばしてもらえたと考えるといいのかもしれませんが、私としてはそれなら働いていたらお金になったのに無駄に過ごしてしまったし、自分の人生にのびしろがなかったと確認してしまったと感じています。今まで自分を叱咤激励してきたどの言葉も響きません。本当にがっかりです。元気がわいてきません。
来月からは嫌でもお金を稼がないといけないので、心を無にして生きていくことは出来ます。だけど本来の目的の納得いく自分の人生をやっぱり生きたいです。これ以上今は背伸び出来ません。素の自分は納得いかないのです。仕事先は一応やりたかった事に近いところの面接を受けました。それが将来に私の目的に繋がっているかは分かりません。体が動く内にチャンスを掴めるかは分かりません。それでも今の自分にできることはここまでです。将来、何も形にならなかった時に耐えられるのか、今から不安だし、形にならないのではないかと感じています。とにかく今は何も考えたくない気持ちです。
今この相談で気持ちを綴ってみると自分の気持ちに触れて涙が出ますが、それ以外の時間は白けた暗い気持ちです。
今月頭に風邪をひき、ずっと体調不良のなか仕事を探し、面接に行き、来月から働かなければならないプレッシャーも関係してるのでしょうか。こんなのは初めてです。ひもが伸びきった感じ。どうしたら自分を気持ちよく受け入れるようになりますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ご質問ありがとうございます。
確かに何か結果を出す為に働くというのは良い考えだと思います。目標があるから頑張れるということもあります。
しかし反対に結果や目標にとらわれない生き方も悪くありません。
今に集中する。
ここでできることに集中する。
結果も目標も無くても、今の目の前の仕事に集中する。目の前の仕事に集中することを楽しむ。同じ作業の繰り返しだとしても頭の中では「どうすればもっと正確になるか、どうすればもっと時短できるか」を考えながら作業する。
そうしていたらそのうち自分なりの目標もできたりします。
お寺の境内にはたくさんの雑草が生えています。今の時期は小さな綺麗な花を咲かせています。雑草が綺麗な花を咲かせることになんの意味があるのか、雑草はそのうち取り除かれるのになんの意味があるのか、など考えなくていいのです。今精一杯に花を咲かせる、それだけですばらしいのです。
私たちも雑草のように今ここでできることに精一杯頑張っていきたいですね。
質問者からのお礼
今苦しいばかりで動けないなら、目の前の用事を済ませる事だけ考えて、目標は一旦置いといて、前向きにとにかく動きます。ありがとうございました。
しんどいながらも目の前のことをして、迷いながらも選択して、それらが後に合っているか納得出来るか分かりませんが、今はやたら苦しいのはなくなりました。思い通りにいかず、苦しむ気力がなくなって鈍感になってしまったのかもしれません。でもとにかく、意義を求めず目の前の事を一生懸命すると言う大切な事を思い出させていただきました。あと、やはり今までしてきた事からかけ離れたことを急にやろうとしていました。どこかでそれは無理と思いつつ、あきらめきれなくて。その事で自分を追い詰めて苦しくなってたと思います。仕事も面接に落ちる度しんどかったけど、気を取り直して探すうち、一番最初の目的に近い仕事に戻ってきて、採用が決まりました。働いてみないと分かりませんが、少し不思議だと思いました。もう一度夢を追いかけようかなと思いました。真実に触れ空虚や孤独を味わい、辛い思いもしましたが貴重な体験をしました。私の苦しみに耳を傾けていただきまして本当にありがとうございました。