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毎日モヤモヤ

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有り難し有り難し 4

以前にこちらで相談させていただいた職場は退職し別の職場での相談です。

今の職場に勤めてもうすぐ一年近くになります。
同じ日に入社した同期は色々な仕事を責任者から振られるのに私は誰でもできるような内容の仕事ばかり割り当てられます。その度にモヤモヤしてしまいます。
同期と私は未経験で入社し、今も力量にそれほど差はないと自分ではないと思っていますが、責任者や先輩方からみたら
私は同期より信頼もなく頼りないのだと
思っては毎日落ち込んでしまったり、周りから「かわいそうな人」とおもわれてるのではないかと恥ずかしいです。そしていまだに責任者は"私だけ"に他の人には注意したりしない些細なことでも指摘してきます。入社したてで右も左もわからない人と同じような扱いなのか?と不快になります。

ですが、これから腐らずもっと力をつけて頼りにされたいという気持ちもあります。
今後、モヤモヤせず仕事に集中するにはどうすればいいでしょうか。

2024年5月30日 21:03

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

わたしで居たい OR アタシDE痛い 

お近くのお寺さんとご縁のある会社の社長さんの一番のお気に入りは腰ぎんちゃくさんです。かばんも持ちます。おべっかもします。仕事もテキトー?社長から見れば適切?でそつなくこなします。
ある真面目な社員さんはやめさせられてしまいました。
もう一人がっつのある方もやめてしまいました。
ある人はラーメン屋を始めましたが、社長さんが言うには「あいつは手際が悪い」このままでは長く続かないだろう。案の定、そのラーメン屋さんは閉店してしまいました。
一番動ける人は、社長からは信任されていますが、誠実で仕事もよくこなします。
ですが、社長のお気に入りはコシノ・ギンチャクさん(仮名)なのです。
軽いので扱いやすいらしいです。
キャラって人は決まっているわけではないですが、要は上司との相性とか、そんなすごい理由とかでもないのですよ。
あなたも好きなお友達は誰ですか?なぜその人が好きですか?
一緒にいて疲れないからじゃないですか?
そんな理由から重宝される、徴用されるということがあるものなのですよ。

私は社長さんの立場であれば、確かに色々堅物すぎない、軽いコシギンチャクさんの方が扱いやすいというのはわからんでもないのです。
仕事一筋で昔気質のガチンがちんな態度であれば上司からすれば扱いづらいとか融通が利かないとかあるでしょうし、距離感を感じるとかフレンドリーさがあまりにもないとそっけない、扱いづらいということもあるでしょう。

さて、ここから仏教のお話です。
人は誰でも出会いがしらの時点では無我なのです。
ここでいう無我とは自分自分した固定的な私がないということ。
見知らぬ子どもと仲良くなる場合、自分自分した態度が強いと溶け込めない、仲良くなれない、警戒されてしまうものです。
人の本来の姿というものには構えごとはありません。
あなたも今度会社で構えごと、スタンス、自分の固定的な姿勢というものを外してみてはいかがでしょうか。

ライトにやわらかに、明るく、にこやかに、ふにゃふにゃと。🐈
世の愛されキャラというものは、愛される理由があります。
そういう特性を自分で見出して、取り上げて、取り入れることをお勧めします。
どんなにアタシはアタシで居たい!と思っていても、そのアタシアタシしたアタシのせいで回りにメンドクサイとか窮屈な思いをさせてたらそれアタシでいたいんじゃなくて「アタシDE痛い」。

2024年5月30日 21:27
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

コメントありがとうございました。
お礼が遅くなり申し訳ありませんでした。

確かに上司との相性はあると思います。
その上司は細かいタイプの方、私は終りよ良ければ全て良しなタイプで、上司からしたら悪い意味で気になるのでしょう。
周りをみてると上司が懇意にしてる部下は、大雑把とは逆な方の気がします。
返信を拝読し、色々気が付くことができました。
ありがとうございました。

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