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死んだ人の魂

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有り難し有り難し 7

死んだ人、亡くなった祖父や祖母はは私のことを忘れてしまうのでしょうか。
死んだ後のことを調べていると、
亡くなった人は最後、今まで過ごしてきた、家族のことや自分のことを忘れると書いてありました。
亡くなった祖父や祖母は私のことを見ていないのでしょうか。私の声は届いていないのでしょうか。私を忘れてしまうのでしょうか。それならば、凄く悲しく、私は死ぬのが怖いです。家族のことを忘れたくはありません。

2024年6月10日 21:18

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

いつもお見守りなさっています

拝読させて頂きました。
祖父母様や亡くなられた方々がどう思うのかとあなたはとても疑問に思っておられるのですね。あなたがそう思うのもわかる様に感じます。あなたのその思いを受け止めさせて頂きます。
祖父母様やお亡くなりになられた方々は仏様や神様がお導きなさって下さり、先に往かれた親しい方々やご先祖様があたたかくお迎えなさって下さいます。そして仏様や神様のもとにて一切の迷いも苦しみも痛みからも救われて、清らかに円満にご成仏なさっていかれます。そして生きるあなたやご縁のある方々を穏やかに優しくお見守りなさっていて下さいます。
ですからあなたはいつでもどこでもどんな状況の中にあったとしても祖父母様が優しくお見守りなさっていて下さるのです。あなたと祖父母様やご先祖様とのご縁はこれからもずっと永遠に続くのです。
まだまだ先のことでしょうけれども、いつの日かあなたが与えられた天寿を全うなさる時にも必ず仏様や神様があなたをお導き下さり、祖父母様やご先祖様があなたをあたたかくお迎えなさって下さいます。そして再会を喜び合い分かち合うでしょう。一切の迷いも苦しみからも救われて何の憂いもなく清らかに円満にご成仏なさっていくことができるのです。
どうか安心なさってあなたの人生を歩んでいって下さいね。
あなたがこれからも沢山の方々との愛情に恵まれて健やかに生き抜いていかれます様に、皆さんと一緒に心から幸せに生きていくことできます様に切に祖父母様やご先祖様にお祈りさせて頂きます。至心合掌

2024年6月10日 22:28
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有り難し
おきもち

個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

生者と死者の関係性はあります

人は亡くなられた後は精霊、みたま、霊魂として存続し続けていくのです。
死後もずっとそれは続いていくものです。
亡き人が死後も存続していくということは、あなたの中でその人が今後も関わり続けていくということです。
よく言う、幽霊は存在するのか?知ないのか論というのは、物質として存在するというより、精神世界、実際にこの世に存在していた時の作用があり続けていくということです。面影、消えぬ声、残り香、言葉、業績、足跡、行履(あんり)として、残って踏襲され続けていくのです。
人が亡くなって本当にそれっきりだったら、誰も泣きもしません。本人の死後も周りの人々に確かな影響を及ぼすからこそ、ちゃんと死後も法のハタラキとして存続し続けていくのです。
人が亡くなられて本当にその後、何もなくなってしまうというのであれば、誰にもお釈迦さまの存在は知られません、影響力もありません。仏教もありません。
そもそも生命とはものじゃァないのですからこそ、生きて、生きているうちに活動をして多くの人たちと関わりあったり、この世に小さな輝きを残すのです。
また、ものだって魂はありますから、あなたが小さいころ大事にしていたオモチャだって何年たっても忘れないでしょう。私の時代はゴールドライタンというオモチャがあって今も欲しくてしょうがありません。ああ、あの懐かしい、キンキラキンの。重たいカクカクの。今でもいとおしいと感じます。どこか行っちゃったけど…(´ー`)✨
だからこそ、人は生きている人たちも生きているうちに生きている人を大切に敬わなければならないのです。そして、亡くなられたとしても大切にお祀りをしなければならないのです。それをしないと人はやれ唯物主義だ、便利主義だ、共●主義だ、で人をモノのように扱ったり、人権人命が軽視されるようになるからです。
噛みや仏を敬うということは、そういう人の尊厳、命の尊さを敬うということです。そういう敬いの精神がこれっぽっちもない所には残念ながらそういう精神性が理解されることなく、関わり合いもなく、もののようにドライに扱われていくことは確かにあるでしょう。
あなたが生命やモノの大切さ、出来事の尊さに気づけば、どんなものもコトも、永久に生き続けていくことができるのです。生きている人々も。そして亡くなられた人々も、ともに大切に敬ってください。

2024年6月13日 13:05
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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