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2025年7月5日4時18分

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有り難し有り難し 15

荒唐無稽であることが望ましい話です。

標題の日時で検査すると、様々なところから滅びの予言がされていることがわかります。東日本大震災の三倍の規模の津波だとか核ミサイルだとかフィリピン沖だとか隕石だとか。事実無根と軽く扱うには根拠が重なりすぎていてどうしても軽視できません。そして私は「問題が起こる=解決できずに全てが崩落する」と強く感じているので、きっともう一年近くの命なのだなと感じています。

私はただ、痛みや苦しみから逃れられない物質世界で生きていたくないだけなのです。死ぬことよりも、死んだ向こう側で過酷な世界に生まれるのが恐ろしくて恐ろしくて仕方ありません。屠殺される家畜。逃げきれなければ捕食される草食動物。餌に釣られて毒殺される害虫。ああいやだ恐ろしいと思うのはいけないことですか?

生きることは恐ろしい。どう生きても自分より遥かに大きなものによって弄ばれて終わるこの矮小な身体が恐ろしい。脳味噌の誤作動と物質世界に永遠に閉じ込められているのが恐ろしい。そんなことを感じてはいけないのですか?苦しみを受け入れられるようにならなければいけないのですか?安心して生きてはいけないのですか?ガンジス川の濁流に飛び込んで疫病を得なければ救われないのですか?生き物の本来の姿とはどんなものなのですか?

この時代のこの場所に生まれただけでものすごく幸運だというのに、その中でさえ上手く生きられなくて苦しんでいる私が、災害や大破局に直面した際に恨みを抱かず運命を粛々と受け入れられる気がしません。「だから生きるのは嫌だったんだ!だからこの世界は嫌なんだ!」と恨み憎しみの塊になったまま死んでしまいそうで、すなわち苦しい来世が確定しています。「今、ここ」に集中しようとしても、破滅のカウントダウンを感じるとそれどころではなくなってしまいます。未来が誰にも見えないのが恐ろしいと傲慢な感情を抱いてしまいます。

私が救いを信じられないのは、今までの人生において大いなるものの救いを感じられなかったからです。破滅の信憑性ばかりが高く、破局、混乱、絶望の未来しか待っていないと漠然と感じています。これらを否定したり適切な距離をとったりするには、あまりにもこの世界の矛盾や欠陥が多すぎます。「今ここ」に生きるよりも、「どうしたら苦しまずに死ねるか」でいっぱいです。

安心して生きることは傲慢ですか?

2024年7月3日 2:28

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

毎日、毎秒、毎瞬間がXデー。無色透明の事実。それ以外は思い。

何年の何月何日にナニカが起こるという煽りは昔からよくある、ネットの扇動法です。結局何も起こらない。根拠がないから。あっても対応しかない。ありもしないことをあるあると騒いで今と未来と過去を見失わせているのがXデー系陰謀論の手法です。簡単に言えば、先のことを勝手に思い描いて恐怖した人が、その妄想を一人でしょいきれなくて周りの人たちまで陥れるだけです。例えば未来から来た人とか、未来の予測をする人で当たっている人はほぼ皆無。その力があれば能登や熊本、東日本大震災の警鐘を鳴らしてくれても良かったのですが、都合よくそういうのは出てこないのはなぜでしょうか?
そういう情報に翻弄されてしまう人の恐れの心理は具体的に、その案件や事象に恐れているのではなく、自分が思い描いた自分の脳の中のサブ・副産物的な怖い思いの方の側におびえているだけだと見抜きましょう。あなたが恐れているのは自分の思いの側なのです。自分が最悪の事態を想定して自分の脳をフリーズ状態にしているだけなのです。
大切なことは、ではそうなったらどうするべきか。そうなったときにどう対処するのか。いざ、最悪の事態になったときにそこでもフリーズしてしまう用ではダメでしょう。
生きるということは、モチが膨らんで割れる、シャボン玉が膨らんで割れるように、音が鳴って消えるように、その時、その瞬間だけを生きているというわけではありません。確かに、そこでその事象が起きたということは真実であっても、それでもその後も人生はあるのです。
脳というもののハタラキは、さっきまではあれが起きたらどうしようどうしようと不安でフリーズしていた。でも今は?これを読んでいる。これが届く前は別のことしてた。忘れてご飯食べてるときは、ご飯食べてる。トイレ行ってるときはトイレ。
他のことを同時に持ち込んでいないときが確実にあるはずです。
この世の中で確かな真実とは、先がどうであれ、たった今はあなたはそこで呼吸をしている。さほど大きなことが起こっているわけでもない。平穏無事に生きているはずです。
確かに、今日も様々な事件がニュースになる。それが起こっているの現場。
ですが!大きなことと思っていたのはすべて脳内で考え出された仮想の、仮定の、もしかしたら、そうなったら大変だ案件。人間の煩悩というものは事件は現場ではなく脳内で起こっている仮想案件です。心安らかならんことを。

2024年7月3日 7:18
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有り難し
おきもち

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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

たつき諒「私が見た世界」で検索してください。

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