死んだら無になることへの恐怖
もう何十回、何百回と回答されているテーマだと思いますが、相談させてください。
ここ数ヶ月の間、死が怖いという気持ちが離れず、夜も眠れないくらいです。
私は恐れているのは、死んだら無になる可能性です。
私は科学を信じている(盲信していると言ってもいいです)ので、人間とはただの物体で、感情も脳の反応だと思っています。
だから人は死んだらただの物体になると考えていて、それがたまらなく恐ろしいのです。
私は両親と暮らしていて、日々の生活に幸せを感じています。
しかし死んだら無になるとしたら、この幸せはどうなってしまうのですか?
両親が亡くなり、私も死んでしまったら、全てなかったことになってしまうのでしょうか?
いずれ死んで全てを感知できなくなるのなら、この日々も無駄ということになってしまいます。
「一度きりの人生なら楽しめばいい」と思われるかもしれませんが、死んでしまえば「楽しかったな」とすら思えないのです。
それはいっそ生まれてこなかったとしても、結局は同じということになってしまうのはではないでしょうか?
全てに虚無感を感じてしまって、幸せを感じることすら怖くなっている状態です。
しかも死への恐怖は杞憂ではなく、絶対に避けられないという事実があります。
全ての先人が経験していることですが、どうやってこの恐怖と向き合ったのかがわかりません。
科学を信じている私が、今回ここに相談したのは、宗教的なものを信じたい気持ちはあるからです。
かつてお釈迦様も生老病死に悩まれていたと知りました。
その悩みから抜け出せる知恵が、仏教にあるのではないかと思ったのです。
仏教では死についてどのように考えていますか?
お坊様は死を恐れていますか? その理由は何ですか?
またお坊様は当然ながら仏の世界を信じていると思いますが、信じるに至った根拠や理由はありますか?
尚、両親も私も健康状態に問題はなく、死が差し迫った状態ではありません。(人生、何が起こるかわかりませんが)
それでも両親との別れはいずれやって来ます。
私は自分がただの物体になるのも恐ろしいですが、両親が物体になるのはもっと恐ろしいのです。
お坊さんからの回答 2件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
『死を待つのも楽しいものだ。』
はじめまして。
浩文(こうぶん)と申します。
科学を信じる人にとっては
“死”というのは“永遠”なんですね。
永遠、つまり無限といってもいいくらい。
あらゆる意味で“無限”だと。
まず時間において及ばない、
肉体としても及ばない、
精神としても及ばない、
理解においても及ばない、
あらゆる意味で及ばないということで
お釈迦さまはそれを無限とか永遠とは言わず
“無記”という態度を示しました。
それを聞いてまず私が思うのは
“死”には答えがない。
答えを出したとしても、それは生きているうちにしか抱えられないものである。
生きていることを前提にしか“死”は抱えられない、ということです。
答えを出すことは間違いではない。
答えを求めることも間違いではないが
必ずそれは生きていることが前提になっています。
ということは、死んでしまったらそもそも心配している自分がいませんね。
科学を信じている人で一部の人がなぜ、死後を想って虚無に陥るかというと、死後も自分がいると思っているからではないでしょうか。
この点、科学を宗教にしているともいえますね。
お釈迦さまの無記の方がよっぽど科学的かもしれません。
ここから先は私個人の、科学的な答えです。
答えですから生きているうちの話です。
それは
「生まれる前に戻るだけだ」
ということです。
生まれる前の何十億年
何してたか気にしませんね。
科学を信じている人には
一番間違いがないかな、と
今のところ思っています。
ちなみにあくまで科学的な人には
この答えかな?と思うだけで
私はこの答えを採用しないです。
道半ばで答えを出しても
道が止まるだけで、
生きていることにはならない気がするからなんですが。
あえて言うなら
かつてとある老師が死の床で
弟子に遺言をひと通り告げたあと、
『これで何も思い残すことはない。
あとはただ死を待つのみ。
死を待つのも楽しいものだ。』
とおっしゃった。
そんなふうに死にたいと思いますね。
南無毘盧遮那仏 合掌
言葉で捉えるから
こんにちは。私は浄土宗で、学校で学ばれたかと思いますが、「南無阿弥陀仏を称えておくと、この世での命が終わってからは極楽は迎え入れられるのだ」という教えです。
お釈迦さまが死後についてどのような態度であったかは既にお読みでしょうから、日本中世ではどう考えられていたか、です。
この、「この世の次はあの世」という理屈が、生きている私にとってどのように働いているのか、をお伝えしましょう。
私は一昨年、父を送りました(亡くなりました)。そして「今は極楽は行って、ご先祖さん方と一緒」と信じています。
だから。
お葬式で檀家さんに「住職も先に行って待ってますから」とお伝えします。「みんな同じ所へ行く」ということから導かれる話ですね。
でも「お前、それ見てきたんか?」と言われたらノーです。つまり、私がこう信じているのは、くどい言い方をすれば「この教えを聞いて、私の脳はそれを採用した」ということです。
そう考えると、あなたと似た行為に見えません?あなたの脳とわたしの脳は、どちらも頭蓋骨の中にあって、単体では何にもなりません。他の臓器と繋がり、入力や出力をしてフィードバックを受け、、を繰り返しているわけです。
違うのは、あなたが採用した言葉(説明)。あなたの脳は、何を基準にどう比べて、「無になる」を採用=信じたのでしょうね?
私は「どちらも選ぶのが自由なら、生きやすい方を選ぶべき)と考えています。「亡くなった後のことは、仏様が保証してくれてる」と信じることで、この問題にケリを付けているとも言えます。
そうすると…だからか分かりませんが、あなたが「ただの肉体」と呼んでいるものも、少し愛おしくなったりしますよ。
質問者からのお礼
浩文様、良文様、ご回答ありがとうございます。
正直なところを申し上げますと、納得できたかと言われるとそうではないところがあります。
しかし回答をいただいて思ったのは、科学も所詮は一つの見解に過ぎないのではないかということです。
私は白黒付けたがるところがありますが、良文様の「採用する言葉の違い」というお言葉にはっとさせられました。
まだ回答を理解きれていないところもありますので、何度か回答を読み直してみようと思います。
いつか「死を待つのも楽しいものだ」の境地に至れればいいのですが。
この度はありがとうございました。