現世利益とは
十年来の悩みを解決するためにあちこちの寺社を巡り、現世利益を説かない浄土真宗(現生十種の利益というのがあるのは知っていますがそういうのじゃなくてもっと即効性のある即物的な現世利益が欲しい)を辞めてまで理想の宗派を探している者です。
ただ、割と現世での救いに力を入れて説いていらっしゃるイメージがある日蓮宗のお坊さんに聞いても「現世利益とは久遠本仏を悟り安らかさを得ること」という答えだったので、ちょっと仏教における現世利益を根本から考え直さなければいけないのではないかと思ってしまった次第です。
歴史的に浄土系は来世にしか救いがないと批難してきたはずなのに日蓮系自慢の現世での救いも心の安らかさを得るだけなら浄土系と五十歩百歩ではないのか(阿弥陀念仏だって心の安らかさは得られますから)。
結局のところ仏教における現世利益ってどこの宗派も「直接的に奇跡が起きて悩みが解決するわけではないが、心の持ちようで悩みが軽く感じられるようになる」程度のものなのかと思えてきました。このあたりのお坊様方の現世利益の捉え方(具体性の程度)をお伺いしたいです。
仏教に願いを叶える現世利益は無いとまでは言い切れないでしょうが、自分の努力で一進一退を重ねても最後の決め手に欠けるという時にずっと傍観していた神仏が最後の一手だけ手を貸してくれるというようなものだと思った方がいいでしょうか?
お坊さんからの回答 3件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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仏教は実践の教えなので
こんばんは。ご無沙汰しています。「現世利益とは」との問いですが、「仏教の〇〇を信仰すると(或いは行ずると)お金が儲かる、とか出世する」という「現世利益」のイメージなのでしょうか。
そういう魔術みたいなのは、ワンステップ挟まない限り、ないのではないかと思います。
と言うのは、「富とか社会的地位とかは、所詮儚いものだ」というのがお釈迦さまの立場だからです。なので「お金が欲しいので信仰したいです」という相談があれば、基本的に「その執着からは離れましょう」と答えるのが基本だと思います。
ただ、あなたの言う「心の安らぎ」は、例えば「自分のためでなく、人のためになる仕事をしよう」とか「相手にとっては本人が一番大切なのだ」という認識が、あなたの行動を制御して、結果儲かったり伴侶と巡り合ったり、につながる可能性は高いと思います。
戦後の新興宗教は「入れば病気が治る、入れば儲かる」という釣り文句を使っていたことは知っていますが、伝統仏教がそういう物言いをしてきたとは思えません。それは先ほどのお釈迦さまのスタンスが基本だからです。
あなたの言う「最後の一歩を仏様がやってくれる」というのは、むしろ「思い通りにならないことをどう消化するか」という方向になると思います。その時、あなたの願いは執着になっている可能性がありますから。
あなたの「利益」は、あなたが望む形でなければ訪れない、とは限らないよ。でも大丈夫だよ。それが信仰の教えるところだと考えています。
それは、私にとっても同じです。私の願い(多分真っ当だと思っているのですが)が叶わない可能性も、またあるのだろうと覚悟しながら、できることを続けているのが私の人生です。
ご質問ありがとうございます。
私のイメージだと、求める結果が訪れるためのプロセスを知ることと仏教は相性がいいように思います。
なんか、最後の最後にというのは、悟りより執着を強化することになりそうで、仏より神様の出番かなと思います。
仏道の行は、その時その時の確認作業。
何でいま僕は努力できてるのか?
努力の方向が成果の方向と一致できてるのはなぜか?
というような、自分の努力を支える構成要素が機能してるかを監査する作業のイメージがあります。
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お礼コメントありがとうございます。
私もプロレス好きです。
生きる上で大切なことはプロレスから教えてもらいました。
トレーニングのご利益はベルトを巻く以前に怪我しない身体をつくるため。
技を磨くご利益は目の前の相手を倒すだけでなく、お客さんへの訴求。
勝って終わりでなく、応援を続けてもらわなきゃ成り立たない。
と思ってます。
神祇不拝については、、、
悟りや往生の正因にならないよ、程度です。拝んじゃいけないになると、それもまた窮屈ですね。
僕が町内会長をしていたときにコロナが流行り町内にある神社の行事が中止になりました。『お酒飲めないから神社の祭礼もしない』という理由でしたが『こんな時こそ、神主さんの出番でしょう。酒飲まなくていいから神事だけはお願いしましょう』と祭事の継続は図りました。
あと、庵号につきて、ウチの派で寺院規則にあるのは、寺院、教会、道場です。
寺院か教会か道場を持つときは所定の手続きが必要となりますが、庵号の定めはないです。
泰庵は自称しているハンドルネームです。。
以上、あれこれ書いてすいません。
引き続きよろしくお願いします。
転重軽受
法然上人の御法語の中で、このような考え方が説かれています。
たとえば病気になったときに、本来はもっと重篤な病のはずであったが阿弥陀様のお陰で軽い病で済んだのだ、という考え方です。
現世利益を求めるのではなく、現世で利益を受けていることを喜ぶのです。
質問者からのお礼
>佐藤良文上人
いつもありがとうございます。
>あなたの「利益」は、あなたが望む形でなければ訪れない、とは限らないよ。でも大丈夫だよ。
非常にズシンときました。これが仏教の現世利益なんですね。確かに目標を叶えてみたらこの目標は達成しない方が良かったと思うことも人生にはよくありますもんね。
>泰庵 一法上人
ありがとうございます。
僕はプロレスファンなのですが、プロレスは結果より過程が重視されるスポーツです。それに似ていますね。
おっしゃるように仏様と神様の現世利益の形に分業のようなものがあるなら、どちらかだけに絞らなくていいからどちらも拝めてうれしいなあと、神祇不拝に納得できなくて真宗辞めた僕は思ってしまいます。
ところで余談ですが、泰庵さまと名乗ってらっしゃいますが、真宗にも庵号がありますか?
>願誉浄史上人
いつもありがとうございます。
法然上人のその法語は知っているのですが、それは納得できないな…というのが正直な感想です。
二通りの人生を生きることはできないので、信仰していたかしていなかったか、念仏していたかしていなかったかで転重軽受が本当にあったかどうかは比較できないわけで、なんか新興宗教の言い訳と同じレベルみたいに感じちゃうんです。尊敬する法然上人にこんな事を言うのは失礼だとわかってはいるんですけども。