罪悪感をどうにかしたい
30代で最愛の妻と死別し、子育て中の40代男性です。自宅で2人暮らしです。
自分の子と一緒に映画を見るのは大丈夫だが、子を親族に預けて1人で映画を見るのは、ものすごい罪悪感があり楽しめそうにもないので、結局行けない。
自分の子と外食に行くのは大丈夫だが、子を親族に預けて、私の友達や同僚と飲み会に行くのは、ものすごい罪悪感があり楽しめそうにないので、結局行けない。
ちなみに親族との関係は極めて良好で、子を預けるとしたら快くOKしてくれる。
この罪悪感は「妻はもう楽しめないのに、自分だけ楽しんで申し訳ない」ということから発生してると自分は思ってます。科学的な根拠が無いことは理解しています。
この罪悪感で自分の行動が制約されているという自覚はあります。それと同時に、私がいろんな事を我慢というか、結果的にしなかったから、子は健康的に日々成長してるんではないかという思いもあります。
究極的にはこの罪悪感から解放されて、もっと私個人の行動の制約を取り払いたいんですが、急にできるわけもないので、徐々にでも罪悪感を軽減していきたいです。
妻は私個人だけがすごく楽しい事をすることに対して、どう感じるでしょうか。
可能であれば、男性女性双方の立場からの意見をお聞きしたいです。
ちなみに私の家の宗派は浄土真宗です。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ご意思を引き取る。
ご拝読させていただきました。
最愛の奥様をお若くして愛別離苦されましたこと深くお察しいたします。
「生死一如」とありますように、わたしたちは生きる背中合わせには死も傍にあります。
毎日メディアやネット記事を見るだけでも心悩ましい事故などを見聞し、それぞれの親近者の方々にとっては辛苦のなかを新たに生きていかねばならない心境で日々を過ごしている方々も少なくありません。
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「妻はもう楽しめないのに、自分だけ楽しんで申し訳ない。」
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上記ご質問での煩悶される意中を「懺悔」の気持ちが芽生えることと捉えておられますが、新しい捉え方をするように角度を変えてみてください。
それは
「奥様のご意思を引き取る」ということです。
奥様が"いのちの極みとなる最期"に願うことは、「我が子をお願い。わたしの分まで背負わせることは申し訳ないが、どうすることもできないので、お願いします。ありがとう」そんなお気持ちで来世へ往かれたことと存じます。
りばーし さん が、奥様がまだまだ生きたかった人生。まだまだ我が子の成長を見ていたかった人生。まだまだ家族で共に過ごしたかった人生。など数えきれないほどの思いを、夫である"りばーし さん"が奥様の『意思』を引き取って上げることが何よりの供養(救済)なのです。
奥様は「苦楽がある人生だが、わたしの分を背負って、人生を楽しんでください。後のことは任せたよ。」
と願っておられることです。
家族だからこそ、お願いできる思いでもあります。
死を見るとき、普遍的には
・息を引き取る(命日)
そうではなく仏教を含む宗教観では
・意思を引き取る(命日に)
命日で人の終わりとするのではなく、命日に意思を引き取ることで、ご遺族の代表(喪主)は心を引き継いでいるのですから、奥様を心に共におられることを重んじながら人生を生きていけば、懺悔どころか奥様は浄土より「いつも、意思を引き継いでくれてありがとう。見守っています。」と、心に声が聞こえてくるでしょう。
懺悔と受け取るのではなく、意思を引き取り「報恩謝徳」の志でこれからは意識を変換して見てください。
合掌
あなたが映画を見ている時は妻様も一緒に映画を見ています。
あなたが楽しいことをしている時は妻様も一緒に楽しんでいます。
あなたが他の異性と恋仲になれば妻様は怒るでしょうが相手が良い人なら妻様も認めてくれるでしょう。
そのように私は思いますよ。
質問者からのお礼
これまでに私自身が見聞きしたことのない角度、アプローチのご回答だったので、大変参考になりました。
ありがとうございました。