希死念慮
どうやって生き続けていったらいいのでしょうか。
希死念慮、自傷行為、自分自身をぐちゃぐちゃにしたい気持ちが抑えられません。
お風呂にも週1-2回しか入れなくて、人間として最低限のこともできません。情けないです。身だしなみも食べることにも興味をもてません。
弱い自分にも嫌気がさしています。
昔から精神的に落ち込んでは少し回復してを繰り返しながら、年々その折れ線グラフが下降していきます。生きていてもいいことはありません。なぜあの時死んでしまわなかったのかと以前に何度かあったチャンスを活かせなかった後悔ばかりです。生き続けても数年後にやっぱりあの時がチャンスだったのにと思う未来しか想像できません。
前世の業を返す今世を全うできないのだとしても、阿弥陀様がお迎えにきてくださるなら自死も悪いものでないように思います。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あなたの存在そのものが尊いのです
ご相談読ませていただきました。あなたの痛みと辛さは計り知れないものでしょう。あなたの心の重さに寄り添い、共に感じることをお許しください。
希死念慮や自傷行為、自分自身に対する厳しい感情は、本当に辛いものです。日常生活さえも難しい状態で、自己嫌悪に苛まれているのは、きっと心身ともに限界を越えた状況にあるのでしょうね。自分を責める気持ちも理解できますが、そんな中で生きているあなたは本当に強いのです。
精神的に落ち込んでは回復を繰り返す、その度に疲労が溜まり、下降する気持ちになることはとても自然な反応です。年々その折れ線グラフが下降していく感覚は、あなたがしてきた努力が報われなかった時の徒労感を示しているように感じます。
「生きていてもいいことはない」と思うその気持ち、そして「なぜあの時死んでしまわなかったのか」という後悔は、あなたがずっと重荷を背負い続けてきたことを物語っているように思います。しかし、その一方で「その時、死ななかった」という事実が、あなたの中にまだ何かを掴もうとする希望があったことを示していると感じます。
仏教の教えでは、命は尊く、一度しかない今世を大切にし、全うすることが重要だとされています。阿弥陀様が迎えに来てくださるその日まで、あなたの命を生ききることに意味があると信じています。
辛い日々が続く中で、あなたは一人でその痛みと向き合ってこられたことでしょう。でも、どうかその重荷を少しだけおろす時間を持ってください。小さな一歩で構いません。例えば、朝目が覚めること、今日を迎えること自体が一つの成し遂げたこととして、自分を少しでも愛し、認めることができればと思います。
私たちは皆、人生という長い旅の途中にいるのです。その途中で疲れ果て、立ち止まりたくなる時もありますが、それでも歩みを止めず、自らを慈しみ、他者の手を借りることを恐れないでください。あなたの命は、阿弥陀様も大切に思われているはずです。だからこそ、日々を少しずつでも生き抜いていくことで、いつか光が見える日も来ると信じております。
あなたが存在していることそのものが、尊いのです。どうか、ご自身を大切にしてください。あなたは一人ではありません。心から祈りと共に、あなたが少しでも楽になれますよう願っています。合掌
追記
自分の感情を少しずつ表現する練習をしてみてください。
心からお祈りさせて頂きます。
拝読させて頂きました。
あなたが希死念慮が湧いてきて、自傷行為をしてしまい自分自身をぐちゃぐちゃにしてしまいたいという衝動が溢れ出てきて、その気持ちが抑えられないのですね。生きることに悩みどうやって生き続けていったらいいか苦しんでいるのですね。詳細なあなたのことや状況はわかりません、けれどもあなたのその思いを心より受け止めさせて頂きます。
お風呂に入る気力もわかず、身だしなみにも食べ物にも一切興味が湧かないのですね。あなたがそう思ってしまうお気持ちもとても伝わって参ります。
おっしゃる通りなぜこのような辛い状況の中で生きていかなくてはならないのか、なんで死んではいけないのか、阿弥陀様が迎えにきて下さるのであればいっそのこと死んでしまってもいいのではないかと思ってしまいますよね。そんなあなたのお気持ちわかる様に感じます。
そのあなたの思いをここでもお話しなさって下さいね、仏様や神様やご先祖様にあなたのその思いを心からお伝えなさって下さいね。あなたとその思いを分かち合っていきましょう。あなたの生きることの苦しみを仏様や神様やご先祖様そして私達とも分かち合っていきましょう。
またもしも可能であれば少しでも外に出てみて下さい。まだ暑さはだいぶつらいかもしれませんけれど、お彼岸近くになってくると少しずつ暑さも引いてきます。
ウチの近所では沢山のお米の稲が実っています、夕方近くでは稲穂が光り輝いています。その近くでは清らかな川のせせらぎが聞こえてきます。どんなに厳しい中であったとしても自然の豊かな実りがもたらされている光景を目にすることができます。汚れた世の中や社会に生きているのですが素晴らしいものごとをきっとあなたも目にすることができるのではないかと思います。そしてあなたを優しく迎えとってくださるでしょうからね。
あなたがこれからの未来を悩み苦しみから救われていきます様に心から仏様や神様やご先祖様にお祈りさせて頂きます。そしてあなたが与えられた天寿全うなさるとき必ず仏様や神様がお導き下さいます様にご先祖様が優しくお迎えなさって下さいます様に、一切の迷い苦しみから救われます様に心から仏様や神様やご先祖様にお祈りさせて頂きます。至心合掌 南無阿弥陀仏なむあみだぶつ
抗(あらが)いをやめてみる 本音で生きる
まず、死にたいと思うことはあっていい。あって「いい」のです。
私だって何度も死にたいと思ったもんです。
それでいいのです。それも受け入れる。
希死念慮があってはいけないかのような風潮ですが、いやいや、とんでもない。
死にたくなること連チャンだからコッチは自然の反応としてやる気もなく死にたいとか思うようになってるだけですよねぇ。そうじゃないですか?
死にたくなるようなことさえなければ、誰だってみんな楽しーはずなんですよ。
ウチで飼ってるヒヨコだって自傷行為するのです。羽をむしったりもする。やり場のないモヤモヤ、うさ、憂いを晴らしたくて自分や他存在に攻撃的になってるだけですよ。生命みな同じ。
だからこそ、まず自分のその正直な気持ち、正直な本音の反応である、死にたい気持ちや自傷行為をしたくなるその理由を突き止める勇気を持ちましょうよ。
死にたくなるってことは、何でもできる力が発動している面もあると思います。私も学生時代ですが、死にたい意識わいて人間不信に陥りましたが、それが力となって怒りやこんなことで死んでたまるかというエネルギーが沸きました。
怒りだって悪いもんじゃない。自分が頭の中でやっていることを客観視してみると、自分で自分をいじめるようなことをしてしまっている。そんなことをすれば当然心は苦しいし、つらい。そんなネガティブなことをしたり自分を責めたり、何かを裁こうとせんでいい。でもそれもそれでいいのです。活路を探そうと一生懸命な姿なのです。
だからこそ、建設的に悩みましょう。向上的に悩みましょう。少しでもきちんと納得のする答えを見つけるべく光ある法に向って悩めましょう。✨
人は絶対に納得がいかないということに対して、納得がいかない面があるからもどかしい気持ちが生ずる。それもそれでいいのです。うまく表現できない心理があって、それをはっきり表に表せないことがあるからこの世にはアート・表現があるのです。
私を当時救ってくれたものは、私の心情に共鳴・共感してくれるアートでした。
そして正しい道理、確かな道理でした。
前世も、過去世も1秒前の事。
生まれる前の事なんて誰も立証も証明もできねぇ。1秒後はもう来世です。あなたは今世という名の今日、今を生きている!死にたくても体は息をして生きてくれている!あなたに必要なことは真実。自分の納得のいく答えを求めて本音で生きて頂きたい。
質問者からのお礼
Azuma 様
お言葉ありがとうございます。
仕事に行っているので外には出ています。草木や花を意識して観ていた時もありましたが、何も感じることができないままでした。集中して歩かないと倒れそうになり、周りを見ることをやめてしまいました。毎日お祈りしてますが、あまり光がみえません。信心が足りないのでしょうね。
丹下 様
ありがとうございます。
理由はわかっています。私が弱いからです。仕事や人間関係で自分の意見をうまく言えなくて、いいように利用されているのがわかっているのに、どうにもできないのです。ネガティブすぎて、ポジティブさには眩しすぎて近づけません。
表現の世界は素晴らしいですね。以前は趣味で楽器を演奏していて表現することが好きでした。腕の神経を痛めてからはそれもできなくなり、心の拠り所を失ったままです。今この時を生きる。シンプルで簡単なようで難しいですね。
宮本 様
ありがとうございます。
自分を愛し、認めること。そして誰かに頼ること。難しい課題です。母親からの歪んだ独りよがりな愛しか知りません。他人から愛されたことのない自分を愛す方法、認める方法がわかりません。いろいろ読んだりしますけれど、どうしても自分に置き換えてあてはめることができません。発言することを許されずに成長したため、頼ることも含めて自分の意見、考えを伝えることが苦手です。それでもそこを改善しないことには光は見えないままなのでしょうね。