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自分という人間を信用できない

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先日は、罪悪感についての質問に回答頂き、本当にありがとうございました。
これからは周囲に対して尊重の心を忘れず、謙虚に優しい気持ちを持って接しようと心がけています。
悔い改め、幸せを広げることが出来る人間になれるように努力したいとおもっています。

しかしながら、今までの自分の行動や考え方自体が全て間違っていたと気がついた今、自分のことを信用できません。
今、自分で罪悪感を感じている悪行は最近になるまでは、気付くことが出来ませんでした。
ですので、テレビ等で悲しくなるニュースや不祥事、こんな酷いことをした人がいる、などの会話を聞くと
私自身もそんなことをしていた可能性があるかも知れないと過去の自分に思い、
未来の自分もそんなことをしてしまう可能性があるのではないかと、とても不安になります。

どのようにしたら、まっとうな人間となることができるのでしょうか。
そして自分のことを怖がらず信じていけるようになるのでしょうか。
ご助言ください。よろしくおねがいいたします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人間は変わるものです

昔、お釈迦様の時代にアングリマーラと言う殺人鬼がいました。

アングリマーラは人を殺してはその指を切り取り首飾りにしていました。

しかし、ある日お釈迦様と出会い、すっかり改心します。

その後修行に専念しすっかり立派なお坊さんになります。
しかし、世間は彼を殺人としてしか見ませんし、彼自身も過去の自分の姿に苦しむのでした。
そんな彼がある日、難産に苦しむ女性に出会います。

お釈迦様はアングリマーラに安産を祈るように申し付けます。
そしてこのような一言を添えるのでした。
「アングリマーラよ、お前は仏門に入って生まれ変わったのだ、過去のお前とは別人である。そしてこの事が真実であれば、必ず苦しむ女性は安全に子供を産み落とすだろう」
そして難産に苦しんでいた女性は安全に子供を産むことが出来たのでした。

そうなんです。
人は良く変わろうと思い立った時に変わるのです。

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個別相談可能
仏道に入門して40年が経ちました。 死ぬまで修行を続けるのがお坊さんだと思っております。 法昌という法名で、和歌山県の高野山の西禅院が所属寺院ですが、 普段は東京都町田市のマンションで手作りの密壇でひたすら修行を続けている  はぐれ行者です。 伝法灌頂も中院流の一流伝授も授了させていただいております。 娘を持つ母であり、一家の主婦でもあり、親の介護もあったりします。 エッセイや文章、そして漫画家として漫画も描いております。 イーハトーブクリニック萩原医師の指導をいただきヒプノセラピスト(催眠療法士)でもあります。 基本的に隣のおばちゃん的な、でも変わった尼僧です。
ご相談可能な時間はその日ごとに違うので、いくつかご都合を書いてくださいね。 人生で悩んだ時に、最善の答えを与えてくださるご神仏と、あなたは心の奥で必ず繋がっています。ご自身の心の中からご神仏のお答えが受けられるようにアドバイスをさせて頂きます。 ◆著書:「神さま仏さまがこっそり教えてくれたこと」「迷いをすっきり消す方法」「幸せを呼ぶ仏像巡り」

自❝信❞を持つ

私個人の考えですが、仏教の究極的な信仰とは自分を信じることです。(自灯明)
お釈迦様や仏さまらしい物体を信仰するものではない、と思っています。
なぜなら、仏教の原点のお釈迦様は、仏教を学んだのではありませんし、仏法を学んだのでもありません。
自分をみつめ、自分をまかせられるようになった、自分が明らかになった、という事だからです。
ココはお分かりになられますでしょうか。
そのお釈迦様の教えを編纂したもの、二次的に生まれたものが一般で言われる所の仏教です。
よって、一番大切なのは二次的に生まれた仏教を学問的に学ぶのではなく、原点のお釈迦様と同じように自分そのものを学ぶことが大切なのです。そうでないと何となく為になる教え、チエを学んだという程度にしかならんものです。私はそういったことを十数年やってきてので、多くの方々にこの点を誤らないように、と強くお願いしています。
では、自分を※信じる(※信…まかす、理解する、よりどころとする)にはどうすればよいか。
それは自分の意識や自分の思いを中心とした生き方ではなく、自分の見えていること、聞こえていること、事実の世界に身を任せるということなのです。これが俗に言われる無心、無我という心の在り方なのですが、カラッポになるということではなく、自分の思い、自我、我見がないものの見方が無(私)心、無我(見)ということです。
これは、一度そういう状態にならないと分からんでしょうから、とりあえず質問者様は静岡なので、今週末24日放映の心の時代「井上哲玄老師」(静岡 浜松 龍泉寺前住職)をご覧いただくか、井上貫道老師(掛川市 少林寺) をご検索頂いてのちに両老師の開かれている参禅会に行かれることをお勧めします。現在曹洞宗ではほとんどの僧侶が悟りを否定する立場ですが、こちらの両老師は私も長年参禅していますがきちんと悟りそのものを授ける力をもった本当に意味での❝お師家さん❞です。
師家という言葉は最近、使われなくなりましたが、仏道を求める学人をして観念の世界から、悟りの世界に導く力量をお持ちの禅の宗師を師家といいます。
井上哲玄老師
http://www.youtube.com/watch?v=EK3Fw1lU22c
井上貫道老師
http://www.youtube.com/watch?v=GodG42DEYgE

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

悟東あすか様、ご回答本当にありがとうございました。
アングリマーラのお話を聞き、こんな私でも悔い改めひたむきに努力することで、変わることが出来るのではないか、今この時がチャンスではないかと思うことがきでました。本当にありがとうございます。

丹下覚元様、ご回答本当にありがとうございました。
自信ということが、そういうことであったのかと目から鱗でした。
そして詳しいお話、無心無我を実感するための道筋まで教えて頂き、本当に感謝いたします。
教えていただいた参禅会に、ぜひ参加させて頂きたいとおもいます。

お坊さんに質問できるこの場にも感謝しております。
自分でいくら悩んでもどうしようもないことが、こちらでご回答頂くことで、光が見えてくる気がします。
どうもありがとうございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ