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母の死

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お世話になります。

母一人子一人で一人っ子の私が嫁いだ先の近くに母はアパートを借りて住んでいてくれました。(他県にちゃんと家があるのに…)
先日、いつも連絡する時間に電話しても出ないのでおかしいと思い、母のアパートに出向くと布団の上で冷たくなっていました。死後硬直も始まっていました。
死因は脳内出血とのことでした。

うつ伏せで亡くなっていたので、顔が穏やかとは言えない感じになっていて、本当にショックでした。
しかも私は一ヶ月半前に出産したばかりで母に八つ当たりして酷いことばかり言っていました。謝らなきゃと思っていた矢先にこんな事になってしまい、後悔してもしきれないです。

昔からケンカが多かったけど大好きだった母。突然あんな形で逝ってしまい悲しいし、淋しいしで身体が張り裂けそうです。
どのように受け入れたら良いのか…

こんな事にならないために、近くに住む事にしたのに、一人で死なせてしまった。
もう一度会って母に謝りたいです。
助けて下さい。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

きっとお母様に思いは伝わっています

ちびさん。大切なお母様を亡くされて本当にお辛いと思います。

人間は必ず死にますが、死で全てが終わりなわけではありません。(と私は思っています)

仏教では六道輪廻と言って死に変わり生まれ変わりして地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、の各界をぐるぐる巡ると言われています。
だから、死んで全てが消滅してしまうわけではないのです。

それにお母様はちびさんを心配して近くに住んでおられたとの事、娘のちびさんとどんなに喧嘩してもちびさんの事は本当に大事に思っておられたことでしょう。
もし、辛くいのであればお位牌に向かって話してみて下さい。

そして心を澄ませてみてください。

きっとお母様の心が伝わって来ると思います。

日々お母様を思い出して手を合わせてみてください。
お母様との新しい繋がりを感じられるのではないかと思います。

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個別相談可能
仏道に入門して40年が経ちました。 死ぬまで修行を続けるのがお坊さんだと思っております。 法昌という法名で、和歌山県の高野山の西禅院が所属寺院ですが、 普段は東京都町田市のマンションで手作りの密壇でひたすら修行を続けている  はぐれ行者です。 伝法灌頂も中院流の一流伝授も授了させていただいております。 娘を持つ母であり、一家の主婦でもあり、親の介護もあったりします。 エッセイや文章、そして漫画家として漫画も描いております。 イーハトーブクリニック萩原医師の指導をいただきヒプノセラピスト(催眠療法士)でもあります。 基本的に隣のおばちゃん的な、でも変わった尼僧です。
ご相談可能な時間はその日ごとに違うので、いくつかご都合を書いてくださいね。 人生で悩んだ時に、最善の答えを与えてくださるご神仏と、あなたは心の奥で必ず繋がっています。ご自身の心の中からご神仏のお答えが受けられるようにアドバイスをさせて頂きます。 ◆著書:「神さま仏さまがこっそり教えてくれたこと」「迷いをすっきり消す方法」「幸せを呼ぶ仏像巡り」

亡きお母様とのコミュ二ケーションは可能です

懺悔文(さんげもん) というものがあります。
御霊前でお母様を思い出しながら真心を込めてお念じ下さい。

「我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋痴 従身口意之所生 一切我今皆懺悔」
よみかた
(がしゃくしょぞうしょあくごう かいゆうむしとんじんち 
 じゅうしんくいししょしょう いっさいがこんかいさんげ)

直訳
我昔よりつくりし所の諸々の悪業は
皆始まり無き貪瞋痴(欲・怒り・無明)によるものであります
身と口と心より生み出してしまった諸々の悪業
一切わたしは皆懺悔いたします

人間は生きていく中で、何が罪となるかはわからんものですね。
お母さんがもっと長生きなされていたらキチンと話し合いや和解もできたことでありましょうにねぇ。
お母さんの笑顔をあなたの心の中で取り戻せるまで懺悔(さんげ)をなさり、対話をなさることです。
もし、それでも罪の意識がぬぐわれない、心残りがおありなようでしたら菩提寺さんや当山にご相談にお越しください。

お母さんがご存命中の会話であっても一対一では感情的になってしまうこともあったのではないかと思います。
これは別に法事のススメではないのですが、実は、最近坐禅会に次いで、お悩み相談や、法事、供養の申し込みが増えています。菩提寺を持たない方や、霊園で見ず知らずの格安派遣僧侶にお願いしていたという方からです。
我々寺院の宗教者の立場、役割というのは、法事の際に亡き人と生きている人との間に、オフィシャルな仲立ち的立場として亡き人との関係を取りもつという司祭者でもあります。
人間というものは独りではどうしても解決つかない悩みというものがあるように思います。
自分で自宅で一人で供養するのはどうしてもプライベートな供養です。
第三者の公的立場の人間の手を借りることによって、亡き人と、プライベートではない、オフィシャルな視点で対話がなされることができるものです。
第三者を通すことによって、私的感情で正論化され片づけられることが無く、冷静な視点となってはじめて救われていくということがあってはじめて良い供養になるのだなぁ、ということを宗教者の立場として逆に勉強させて頂く機会を得ました。このようなことを最近感じています。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
頂いたお言葉の一つ一つを大切に心にしまいました。
母の位牌と向かい合って話してみようと思います。
母との新しい繋がりを感じられる日を楽しみにします。

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