思考の迷い、悟りとは?
いつも人生について勉強させて頂き、ありがとうございます。お陰で仏教に興味が出て、少しずつですが本を読んだり学ばせて頂いてます。その中で私のご先祖様や人生について思う事があり質問させて頂きます。
私の生前のご先祖様達は仏教で言う徳を積んできた方が多いように聞いています。例えは、私の知っている亡き祖父は、戦争を経験し、盲目の中、人生を社会貢献に費やし多額の寄付を地域や神社に残し人生を全うしました。私は、物質的な欲に支配されたり目に見えるものを重要視しがちですが、祖父は、目で見えないものが良く見え感じる事が出来たんだろうと今は思います。本当に大切な事を教えて頂きました。そんなご先祖様達に感謝し、誇りに思うと同時に、自分が未熟過ぎて人生について思い改めてしまいます。いつか老い死んで行く身ですが、自分はこの世で何が出来るのだろうと思い日々を過ごしています。
現状を自己中心的な視点でなく、違う視点で見れば現状打破が出来るのではないかと思い「悟り」について調べ、死の瞬間から見る視点、宇宙全体から見る視点、瞑想等試してみました。納得行く答えが見えそうで見えません。仏様の視点に少しでも近付ける方法があれば教えて頂きたいです。
また話は変わりますが、ここ最近、近所の小山に無性に登りたくなりウォーキングを始めました。後で霊場との看板に気付きました。健康に目覚めただけなのか何かに導かれたのか、このような思考の中、謎の行動です。
もう一つ、この山の山道を外れた場所に「五百石」と書かれた石看板のある六畳ほどの広場を見つけたのですが、これは何でしょうか。
まとまりのない文章で幾つも質問して失礼しました。答えの出ない思いを巡らしています。未熟な私に今後の生き方や思考の迷いを正しい方向に導いて頂きたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
悟り
悟りというのは、特別な力のことではありません。お釈迦さまが見たものは、不思議世界のものではなく、リアル、現実、事実、真理、真実です。
私たちの生活は本当はお釈迦さまが見たもののように、すっきりくっきり、迷いなし。それにもかかわらず、その姿を曇らせることをしてしまうのが凡人です。
特別なことをするのではなく、何もしないことが大切です。何もしないことをするのではないです。本当に何もしないのです。お釈迦さまが菩提樹の下で坐禅をしたように。何にもしないことに気づくのです。
私の妻はイモムシや、ミミズなどの生き物が大嫌いです。見ただけで「気持ち悪い!」といいます。子供はその姿を見て気持ち悪いものだと学習し怖がるようになります。
私が当たり前に触っていると、次第にそうした見方をしないでそのままを受け入れることができるようになります。子供はとても素直です。色眼鏡で見ることをしません。ただ虫がいる。怖さがない。気持ち悪さもない。ただいるだけ。問題にするのは、物事を曇らせる我見というものです。
我見を用いず、物事に触れたらそのまま。それが救われた姿です。お釈迦さまの悟りの世界です。
価値判断ゼロ。好き嫌い、善し悪し、こうすべき、怖い、気持ち悪い、そうした思考が起きる前のシンプルな姿、そのままの生き方が救われた生き方がだと思いませんか。
仏さまの視点は、もう一歩です。
nanaさん、こんにちは。
素晴らしい祖父ですね。
先祖供養とは、自分の先祖の生き様を知り学び感謝する方法です。今入る自分は先祖の生き様であるわけですから、命を頂いた先祖や祖父に感謝し、先祖に誇れる生き方を目指すために先祖供養をするわけです。私も苦労した父や行者だった祖父、祖祖父を思うたびに自分の生き方の未熟さを身に沁みて感じます。だからこそご先祖さまに見守って頂きたいと願い、精進しております。
仏さまの視点を得るために勉強をしていることは素晴らしいですね。いろいろ勉強したら今度は実践です。実践とは宗教的修行から日常のあり方の実践までさまざま。できる範囲でチャレンジしてみましょう。
私はトイレ掃除に力を入れています。最初の気持ちが「わー汚い」と思ったらまだまだ修行不足。私の負けと思っています。まだまだありのままに見えない。見た目で判断してしまうのです。そして心を入れ替えてトイレ掃除。汚いトイレを見て「おー掃除しがいがあるぞー」と最初から喜びの気持ちになれるように、トイレ修行をしています。
お互い、がんばりましょう!合掌
※五百石はわかりません。地名かもしれませんね。
「無所悟」という言葉があります
悟りは、物事を俯瞰できる技術を身につけるものでも、幽体離脱のような事でもありません。
私は、残念ながらそのような境地になったことはありませんが、邦元師が書いてくださった通り、見ているものや感じているものと意識がツーツーになることだと認識しています。不思議なものでなく、現実的なものです。
曹洞宗の開祖、道元禅師は、「無所悟」と言っています。「悟りを求めない」という事です。これについて話し始めると長くなってしまうので、誤解を恐れず簡単に言ってしまうと、悟って自分をなんとかしよう、という考えを捨てろ、日常生活のひとつひとつが修行だと思って行え、ということです。食事の時は食事を、掃除の時は掃除を、よそ見をせずにやってみましょう。染川師もおっしゃっていますが、仏さまの視点に近づくには、まず、目の前のことを一生懸命取り組むことだと思いますよ。
そして、「五百石」ですが、こちらでいろいろ調べてみましたが、残念ながらわかりませんでした。そのような地名がありますが、あなたのお住まいとは遠く離れています。
霊場の近くということなので、「百度石」の見間違えかな、とも思いました。
近くの図書館など行って調べてみると良いと思いますよ。調べ方が分からなかったら、図書館の人に聞いてみましょう。
質問者からのお礼
回答頂きありがとうございました。
「五百石」ですが、再度確認したら「百度石」でした。人気がなく、草木が多い茂り不気味に感じてしまい、失礼致しました。
光禪様、「悟って自分をなんとかしようという考え」反省しかありません(笑)
邦元様、「何もしない事・ありのままを見る事」言葉で理解しても実践がとても難しく、人に対しても色眼鏡で見てしまうので、今後の課題にします。
染川様、トイレ掃除と聞いただけでも嫌だと感じてしまう私の心は何の修行もできていませんね(^^:反省して見習わせて頂きます。
仏教について度重なる誤解、失礼致しました。霊場との里山は、とても気持ちの良い場所に出会えた事に、ただ感謝致します。
瞑想を何度も試してみて、とてもスッキリ気持ち良くなってきました。自然の中ですると感覚が全然違いました。大地と繋がってるような感覚があり、生命のエネルギーで見ると人間も木々と同じように大地の恵をもらって生かされてるのか?自分の物と思ってるこの体さえ自分の物ではないのではないか??そう思うと人生の全ての事柄が感謝の対象になるのか???という思考になり、まだ試し始めたばかりの瞑想にこれで良いのか、正しいかどうかさえ自分では判断できない状態です。もしまた誤ってたら教えて頂きたいです(^^:
日々に感謝して一生懸命取り組み心を磨きたいので、今後もハスノハの皆様に学ばせて頂きます。
貴重なお時間を使って頂き、ありがとうございました。お陰で仏教とお坊さんが好きになりました(^^)