本願誇りの私は手遅れ?回答受付中
自分は今の生活に満足してます。
ですがもう一度人生を送りたいかというと正直微妙な感じです。
人生辛い事もあるし楽な事ばかりもしてられない寧ろ楽な方ばかりに行っても結局そのつけが回ってくるし結局大変なのが人生です。
ですが極楽浄土に至っては私の想像だと永久に幸せな時が流れてるイメージがあり何としても極楽浄土に行きたい願望があります。
自分が死んだら阿弥陀如来様に救われて極楽浄土に行きたいです。
そうすれば生物の苦しみを味わう事なく永久の幸せを手に入れられます。
ですが果たして自分は極楽浄土に行けるのか不安です。
本願誇りと言って全員が救われる訳ではない事を知りました。
それで自分も本願誇りではないかと思い始めました。
飛んでる虫は平気で殺します。
例えば蚊、ゴキブリなど、、。
自分は命は皆平等だと言う事を知ってます。
例に出した虫も好きでその姿で産まれてきてる訳じゃないのに、必死に生きてる命を気持ち悪いから、害があるからという理由で殺してしまいます。
その背景の一つに阿弥陀如来様に救って貰えるから大丈夫という過信をしてました。
殺してしまった虫達はもう戻って来ない。
それに加えて本願に全てを委ねてるとしてたならば自分は救われないでしょうか?
救われない私はどうすれば良いでしょうか?
地獄に堕ちる、苦しい世界に堕ちる事に観念して毎日怯えて贖罪の日々を過ごすしかないでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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阿弥陀様の本願は絶対であるが、全ての命は尊いことを忘れずに
こんにちは。あなたが心の中で抱えている不安や疑念について、お話しを聞かせていただき、ありがとうございます。仏教の教えを通じ、お話をさせていただきますね。
まず、極楽浄土についてのお話ですが、極楽浄土は阿弥陀如来様の大慈大悲によって、すべての人々が救われることを約束された世界です。阿弥陀如来様の大いなる慈愛とお力を信じ、その願いに心を向けることが大切です。阿弥陀如来様の本願というのは、「念仏を称えるすべての人が救われる」というものです。あなたが心から「南無阿弥陀仏」と唱える心がある限り、阿弥陀如来様は必ずあなたを救ってくださいます。
あなたが感じている罪についてですが、確かに命はすべて尊いものです。しかし仏教において、大切なのは現在から未来に向かう心の持ちようです。自分が犯してしまった罪に気づき、それを通じて今後どう生きるべきかを考えることが重要です。贖罪ではなく、供養の気持ちを持ち、すべての命に対する尊敬と感謝の気持ちを忘れずに過ごしていくことが大事です。親鸞聖人は「解毒剤があるからと言って自ら毒をのむべきではない」と戒められています。
また、極楽浄土に行けるかどうかの不安についてですが、人間は完璧ではありません。私たちは皆、過ちを犯しながら生きています。しかし、それでも阿弥陀如来様の慈愛はどんな人にも届きます。自分を責めすぎず、阿弥陀如来様への信仰を深めることが、心の救いになるでしょう。「南無阿弥陀仏」と唱えることで、あなたの心が少しでも安らぐことを願っています。
最後に、私たちの生活や行動について考えることは大切ですが、過度な不安や自己嫌悪に陥ることなく、前向きに生きることが何よりも重要です。未来を信じ、日々感謝の心を持って生きていきましょう。阿弥陀如来様はあなたのその心を見守ってくださっています。
どうぞ、心安らかに「南無阿弥陀仏」と唱え続けてください。そして、少しずつでも良いので、命に対する感謝と尊敬を育んでいく日々を過ごしてください。心から応援しています。