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高校2年生です。
9月末にあった全道大会で、私だけ唯一、基準点に達しませんでした。
詳しく話すと長くなるので省略させていただきますが、私のやっている部活のスポーツには、練習のために基準点が必要なことがあります。私だけでした。それに達してないのは。
でも、私より圧倒的に部活もサボっている人は、悠々とその点数を超えていました。許せませんでした。もうどうしていいのかわからなくて、自分の努力がゴミ同然だとどうしても思いたくなくて、感情の整理がつかなくて、初めて人に向かって「嫌いだ」と叫びました。
私より部活にも来ないくせに、部活自体も練習もサボるくせに、私よりメモをとったり研究したりするわけでもないくせに、そのスポーツが楽しくない、嫌いだと言っていたくせに、私よりずっと上手いのがどうしようもなく憎かったです。
2ヶ月近く経った今でも、その人の顔を見るとふとそのことが思い出されて、辛いです。一度だって謝罪すらできていません。そのせいで、ここ2ヶ月ぐらいは練習にもどうにか身が入らず、とうとう直近の土日、初めて部活をサボりました。
苦しいです。私の才能がないのが悪いなど百も承知です。私の才能がないことも、子供みたいに感情的な当たり散らかしてしまったことも、ぜんぶしんどいです。楽になりたいです。どうしたらいいですか。
他人の才能に嫉妬している
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感情への名付け
こんばんは。それは残念でしたね。けれど、苦しさのせいで物事をよく捉えられていないことが読み取れます。
基準点というのは、対誰がについて争うのではなく、絶対評価みたいなもので、「全員通る」可能性もあるわけです。それを「あの人が」という相対評価にして認識してしまった。苦しみの中で視界がおかしくなったのですね。
私にも似た経験があります。高校入試で、仲の良かったグループの私だけが不合格でした。その時の気持ちは「情けない、悔しい」でした。多分あなたの心に浮かんだ苦は、こちらの名前が相応しいのではないでしょうか。
これは「才能が、努力が」と区切った話ではなく、トータルダメだったという捉え方でもあります。
こういった、「苦しさを捉えるやり方=名前の付け方」は、意外と根深いもので、あなたの今回の捉え方と私のそれとは、①自分に責任を引き当てる、②才能はすぐ伸びないとしても、努力はやりようが見つかりそう、という2点において異なると思います。
思い通りの結果が出なかった時、どのように捉えるか。その認識の違いは、その後の自分の行動を違うものにしていきます。
どのように認識するか?それは、今までの人生で積み上げた癖みたいなものですが、せめて「こう捉えることもできる」を知ることで変えていける可能性もあります。
これからの人生、今回のような理不尽と思えることは何度となく起きるでしょう。その時、「嫌いだ」と他人を責めるのか「何か努力の問題だったか」と事後策を練るのでは、きっと違いが出てきます。そして、自身の「物事の捉え方」の癖を知り、将来に繋がりやすい捉え方をしてゆくことが、結局は自身の成長、ひいては幸せに繋がると思いますよ。
勉強法でも金儲けの方法でも、それを編み出した人は大抵「上手くいかなかった。なんで?」を出発点にしています。あなたが「物事の捉え方を柔軟に=自由にしていく」、そのための練習問題と思ってください。
あとは、「そんなこともあるさ」と飄々と捉える事も選択肢かも知れません。
いずれにしても、「経験そのもの」と、「それをどう捉えるか」は、ほとんど別物です。「今日はいい天気だった。最後に雨が降ったけど」というのと、「今日は酷い目にあった。雨が降らないと思ったのに最後降るんだもん」というのでは、一日の思い出がだいぶ違って捉えられていますよね。