宗教の社会学
イスラム教はキリスト教の派生と思われますので、キリスト教に集約して考えます。
キリスト教の原理は「神との契約を破り、禁断の木の実を食べたアダムとイブ」で、原罪としてエデンの園から地球に追放され、以降我々も同じ罪を犯していると懺悔します。
即ち「生」が罪としています。
釈尊の仏教について金剛般若経の初めの箇所に次のような記述があります。
「右のような逆説に満ちた教えを信ずるものがありえようか」という題で
「スプーティよ、そのように『そもそも将来、のちの世、のちの時代--正しい教えが滅びるようなのちの五百年代ーになったとき、これらの経典のことばがこのように説かれたばあい、それを真実だと理解しうるものがだれかいるでしょうか』などと語ってはならない。(後略)」
この中の「正しい教えが滅びるようなのちの五百年代」と語っている部分から想像すると,釈尊の没後500年後には「正しい教え」が滅びているという未来が「天眼明」によって確認されていることになります。
この滅びた「正しい教え」が何であるか確定しなければなりませんが、滅びる原因が多分「自己否定」だと思われますので、「阿含経」ではないかと思います。
即ち「生」が否定されていますので、キリスト教と同じ原理となります。
三大宗教が共に「生」を罪とするならば、社会的には、現在生きている人間はすべて欲深い「悪人」の集まりです。生きる為には大部分の人が動物の殺生を余儀なくされています。食用は勿論、蚊や蠅迄。
また常識とは逆に人口の減少(少子化)が好ましく、同性婚が奨励されるという珍妙な判断となります。
お坊さんからの回答 1件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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何のために生きるのか、という問いへの仮説
こんばんは。ご意見興味深く拝聴しました。が、私の理解とは距離があると感じています。
①キリスト教では「生きることが罪」との主張ですが、私の理解では「生きることの意味は神との契約を破った人間が、再び契約を結ぶ為の努力をすることである」「生きることの目的は(神との)罪を購(あがな)うこと」であり、生きなければ購うことすらできない」と説いていると考えます。生き方は説いているが生きることそのものは否定していないと思います。
②仏教では「生きることで煩悩により苦を生じるから、修行をしてその原因を絶つべきである。生きることの意味は煩悩により生じる苦から離れることである」「生まれること自体、自分にはいかんともしがたいこと(苦)であると知り、しかしその上でなお煩悩より離れよ」と観ていると考えます。これまた「生を否定している」のではなく、「生き方」を説いていると思っています。
ということで、どちらも「生きていること」自体を否定しているのではなく「生き方はこうあるべきだ」を説いていると理解しています。「神の望むように生きるべきだ」「煩悩に振り回されないように生きるべきだ」という「生き方」には言及していますが。
なお「社会学?的」な論点に言及すると、どちらの宗教も人間や生を「性悪説」で捉えてないこと(神との契約を破ったから問題、煩悩に突き動かされるから問題)という点は注目すべきだと思います。「人間が増えすぎたから地球が危ない」は、少なくともキリスト教や仏教が発祥した時にはなかった問題であろうと考えます。イヤもしかしたら予見していたのかも知れませんけれど、「当時の生活レベルに戻るべきである」という話になっても仕方ありませんし、(直接的な回答としてではなく)この問題に対して如何に教義を解釈していけるかは、私達の課題なのでしょう。
質問者からのお礼
佐藤良文御住職様 ご指導を有難うございます。
最も大事なのは、「生きる」ことではなく「生まれる=無明(縁起)」ことが問題であると阿含経には書かれています。
「生老病死」の四苦は自然の摂理であって、如来でも手に負えないとなっています。
このことは過去に「仏教はその目的の実践以外何もない」として投稿していますので、ご覧くだされば幸甚です。
佐藤良文御住職様 ご指導を有難うございます。
最初に頂いたご指導が無くなっていますが、追記を頂いたことを知らずに失礼しました。
キリスト教では、神との契約は「禁断の木の実を食べてはいけない」ということでした。もし破らなければエデンの園に永住できたはずです。その「原罪」の為にアダムとイブの後裔は只管懺悔しています。仏教の瞑想のように本気で懺悔すれば確かに天国(エデンの園)に行けるでしょう。
仏教では「阿含経」に「正しくない道」として「無明」の縁起が「生」を生じます。
何故「正しくない」と言っているのでしょうか?
佐藤良文御住職様
「生」については重要ですからこのテーマを離れて、追記させて頂きます。
結論的に仏教とは「死に方」の学問だと私は思っています。
「死に方」の極致は「涅槃」ですね。「涅槃」とは「心の死」の事です。
古代インドではバラモン教が主力で、輪廻転生は永遠で「心」は死なないとされてきました。
釈尊は悟りを開き、三明の最後の「濾尽智通」という神通力を得て「空」を発見し、「心の死」が可能である事を知って仏教を設立しました。
バラモン教と仏教の違いはそこだけです。従って輪廻転生は共有しています。
日本の仏教は輪廻転生を否定し、「死後はない」とされていますが、それは身体と心が同時に死ぬことになります。
「心の死」も含まれていますから、どんな「死に方」をしても自動的に「涅槃」を得ることになります。仏教は必要ありません。
インド宗教の相手は「輪廻転生」だけです。だから仏教の目的は「輪廻転生からの解脱」と言われています。
「涅槃」を得る「死に方」は多岐に分かれています。それが各宗派なのでしょう。
出家の方には「涅槃」の可能性を持っていますが、、衆生はとても不可能です。
そこでせめて六道輪廻の「天界」を目指す「厭離穢土 欣求浄土」の実践を勧めています。心が死んでいませんから、成功しても再び転生の危険が伴います。
一度の「生老病死」の四苦で済めば何の問題もありません。繰り返しが続くため仏教の存在価値があるのです。
佐藤良文御住職様
今一度追記させて下さい。
輪廻転生について、私の意見だけでは疑問をお持ちになるかもしれませんので、最初にご参照をお願いした資料と重複しますが、釈尊自身の言葉を転記いたします。
城邑(南伝 相応部経典 12.65. 城邑)
前略
その時、世尊はかように仰せられた。
比丘たちよ、わたしは、まだ正覚をえなかった修行者であったころ、このように考えた。(この世間はまったく苦の中に陥っている。生まれては老い衰え、死してはまた再生する。しかもわたしどもは、この老いと死の苦しみを出離するすべを知らない。
まったく、どうしたならばこの老いと死の苦しみを出離することを知ることができようか)と。
後略