人の幸せが憎い、腹だだしい。
お世話になっております。また、相談させてください。
この時期、同期の進学・就職先が決まり、幸せな話をよく聞きます。
私もそうであるべきですが、昨年から非定型うつになってしまいました。
「自分は自分。人と比較するな。」というアドバイスを頂戴しますが、うまくいきません。
逆に客観的に物事の判断が出来なくなりました。
どうしたら人の幸せを喜べるようになりますか?
私の性格は歪んでしまったのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
無理はしないでそのままで
否定形鬱との事で、お辛い日々であろうと思います。
ただ、青うめさんの辛さが解るとは申せません。辛さは鬱であろうと人それぞれであろうと思います。
比較するなと言われても気になる事を押さえる事は出来ないと思います。
気になるのであれば、比較して相手を羨んだり憎く思ったりする事もあることと思います。
それを無理をして「比較するな」「自分は自分」と思いを切り換えられるくらいなら、鬱という病気ではありません。
「否定形鬱」という診断が下っているのであれば、その状況を受け入れるのが大事ではないかと思います。
つまり、比較して憎くなる程辛くなっても、それは仕方が無い事です。
無理にそれを修正するより、今は病気であるのでそう思ってしまうのだと思ってみてはいかがでしょうか?
病気が快方に向かえば少しずつそういった気持ちも変わって来て、人は人と思えるようになると思います。
草や木は冬の寒さの中で寒さを根性で暖かくして芽を出すような事はしませんよね。
青うめさんも「鬱」を患っていらっしゃる今は季節で言えば「冬」なのだと思うのです。
「冬」を避けようとせず「冬」受けとめて回復を待てばきっと病気が回復する「春」はやって来ると思うのです。
春に思う存分芽を出し花を咲かせる草木のように、青うめさんもきっと病気が快方に向かえば水に張った厚い氷がとけて行くように いろいろな苦しみが和らいで行くと思います。
ですので、今はそのままでいいと思います。
焦らず病気を治して行きましょう。
あなたはあなたのままでいいと思います。
石橋晃倫です。
人の幸せって喜べないですよね。私もそうです。人を見て羨ましいなぁ。いいなぁって思う事よくあります。
仏教では、縁起という教えがあります。簡単に言うと縁によって今の自分があるということです。
人との関係の中で今のあなたがあり、いろんな方の存在によって今のあなたの命があるというのが仏教の教えです。
自分が自分を作り上げてきたわけでなく、人と人の関係の中において今の存在があるので、人の目を気にしたり、人と自分を比較して腹立たしくなったりすることは誰にでもあることなのかもしれません。
でも、今本当に目を向けるべきところは、人ではなく自分なのかもしれません。
人と比較しなければ、今の自分がいないかというとそんなことはありません。
縁起に生きるというのは、比較に生きるのとは違い、ちがうものがちがったまんまで生きるということです。
人に目を向け比較し苦しむ(腹立たしいという気持ち)のではなく、ご自身に目を向け今を生きられてはいかがでしょうか。
私も人に目が行き苦しむことがありますが、そんなときは「ありの~ままの~」という感じで、のんびりふんわり生きています。
「随喜」と「慈悲の瞑想」
青うめ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
まずはあまり頑張ろうと無理なさられずに、少しずつでも非定型鬱病のご快復へと向けて調えて頂けましたらと存じております。
「比べること」につきましては、これまで下記各問いにて扱わせて頂いております。
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/cat_320135.html
比べることは一概に悪いことではありません。自身のおかれている現状を正しく把握することで、自己の向上に資するためには必要なことでもあります。問題となるのは、卑下したり、嫉妬したり、憎んだりと悪い煩悩に苦しめられてしまうことでございます。悪い煩悩を防ぐ意味では下記問いの拙回答における「慈悲の瞑想」と「随喜」が少しく参考になるのでないかと存じております。
問い「苦しい嫉妬や妬み、友人の結婚や妊娠、出産」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1004623411.html
『・・「随喜」とは、「・・他の者の善徳行や慈悲・利他行について、喜びの心を起こして、その功徳に随うこと・・」でございます。この度の相手の行為(惚気話)の場合は、善徳行や慈悲・利他行とまでは言えませんので、この「随喜」の説明には当てはまらないかもしれませんが、「人の幸せ」に共に喜びの心を起こして、自分も幸せな気持ちになることができれば、「嫉妬」や「怒り」という悪い煩悩を抑えることができるため、誠に推奨されるものとなります。・・』
『・・人の幸せや善徳行を共に喜んで「随喜」していけるようにするために、「慈悲の瞑想」、あるいは「四無量心の瞑想」を行うことが仏教では一つの方法論・・』
客観的判断・・どうしても自我意識における価値観や先入観が強くあるため、本当の意味で客観的に物事を判断できるというのも難しいところがございます。仏教的には、「空と縁起」の理解を進めることで可能になっていくことにはなりますが・・「空と縁起」につきましては、またお時間のある時に下記拙回答をご参照頂けましたらと存じます。
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/空と縁起
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
悟東様、ご回答ありがとうございます。
現在はうつ病とうつ状態を繰り返しております。言わばグレーゾーンです。
病院に行ったものの薬の副作用があまりに強く、通院を諦めました。他の病院を探しています。
確かに今は辛いです。この辛さや苦しさに耐えるより、見つめられるようにするということでしょうか?
ただ、これでそのままでと言われると、正直人を傷つけそうで怖いです。
見つめられるようにしてみます。ありがとうございました。
川口様、ご回答ありがとうございます。
確かに
「誰かの幸せ」は良いことです。
そこに卑屈になることは本来ないはずですよね。
比較することは悪いことではない。
この言葉で心がすぅーっとしました。
多分、私の中で「皆と同じようにしなければならない」
という考えが根付いているとおもいます。
その質問は別の機会にさせていただきます。
ありがとうございました。
石橋様、お礼が遅くなり申し訳ありませんでした。ご回答ありがとうございます。
何と無く『自分が生きている』と他者との関係を見ていなかったところもあります。そんな自分も見ていなかったこともありますが…。
『ありの〜ままの〜🎵』が名曲なのも納得です。ありがとうございました。
追記です。
現在、病院をかえて食事療法で治療を進めております。薬の種類もかなり減らせました。
副作用に悩まされず何とか暮らしております。皆様のおかげです。
ありがとうございます。