愛情不足回答受付中
奈落のような寂しさがあります。
赤ちゃんに戻ってずっとおっぱいをしゃぶりたいです。
心に安心と安全が少ないです。
タバコでも吸えばいいのでしょうか。
外出したら戦いに思えます。
駅で出会うほとんどのぶすっとしたおじさんは敵に見えます。
絶対に避けない人を避けてあげるのも戦いです。
外に出れば毎日、戦いです。
この愛着障害傾向はどうすれば改善されるのでしょうか。
仏教で、何とかできるのでしょうか。
よろしくお願いいたします。
お坊さんからの回答 1件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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寂しくない人はいるのだろうか
ご相談拝読しました。
>仏教で、何とかできるのでしょうか。
というのは良い着目点だと思います。仏教で出来ることとそうではないこと、仏教の目指すものとそうではないものがあります。
あなたが不足を感じる愛情というものを仏教で埋めようとするならば、それは残念ながら仏教の目的とはどちらかと言えば逆の方向正解もしれません。
しかし、愛情不足から感じる苦を何とかしたいというのならば、仏教に活路は見出せるかもしれません。
そうは言っても、誰だって愛されたいものです。この身と心にたくさんの愛情を感じたいというのはみんなが願うものです。それを強く実感したいというのが誰もが欲するところでしょう。
それをもらおうとするのはハードルが高いかもしれません。でも与えようとしてみることは自分の心がけで出来るかもしれません。与えようとしたときにそれが通じるという形でも、逆に拒絶されるという形でも、何か見えてくるものがあるかもしれません。
別に男女の愛や親子の愛ではなく、他者に対する愛。信愛。心を開いてぶつかってみるという経験です。試行錯誤、トライアンドエラーの中で、あれ?自分だけじゃなくみんなが求めているのだな?そして実は誰もそれを手中にできず、どこかで孤独を感じているのだな?と気づいたとき、何か万人が共通の法則の中にいるという連帯感というか同志のような気持ちが他者に生まれるかもしれません。
ないものを求めても手に入らない。何かを生み出そうとする時、すでにその中にある。ということも一切は実体のない空だからこそ言えることだと思います。
まずはここhasunohaでもっともぶつけてくれてもいいのです。もしも遠慮があるのだとしたらですが。
質問者からのお礼
古武様
返信ありがとうございます。
「与える」ということについて、考えてみたいと思います。受け取ってもらえない寂しさもあるし、与えるのも難しいんだな、など日々考えていました。「ないものを求めても手に入らない」はグサっときました。今言われたい言葉だったかもしれません。
お読みいただきありがとうございました。