虚無感との向き合い方
前回はたくさんの方にご回答いただき、今もやるせなくなるたびにいただいた言葉を反芻させていただいています。
今はどうにか次に住む家を探しながら避難先で暮らしています。うちはかなり被害のあった地域なのでまだ当面の暮らしさえ成り立ちませんが、なんとか生きています。
吐き癖は治らないものの、揺れる度に泣いたり幸せそうな人を見て憎たらしくなることはなくなりました。
ただ、虚無というか何かすこんと抜け落ちたようでそういう時はくたびれて倒れ込むまでひたすら歩いています。
ご相談させていただきたいのは、前述の通りどうしようもなくこころがすかすかな気分が抜けないのです。
熊本は未だに揺れます。避難先で揺れる度に建物がミシミシと音鳴りするのに、ここにご相談させていただいた頃は恐ろしくてたまらなかったのに今では死ぬときは皆死ぬのだからと危機感や恐怖さえもないのです。
被災前はあれだけダイエットに励んでは失敗したのにここ3週間でげっそり痩せました。もともと肥満気味だったのが、誰かわからないくらいにやつれていると言われそれもよくよく考えるとまずいのではと思います。
今は仕方ないのか、これはいつまで続くのか。一人きりの家を得て元の生活に戻ればこよ虚ろな気分はなくなるのか不安です
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
熊本がんばれ
れれれさま
震災で奥のものを一瞬にして失い、悲しみにくれる生活をされている方が多く居られるのでしょう。そんな中で、虚無感に襲われているという苦しさ、なんとも想像を絶するものなのだろうと感じています。
虚無感、心がスカスカにとの話でした。きっと生きるということは人間の思い通りにならないことばかりなのだということを感じられたのではないでしょうか。
本来、私たちの生活はそのように思った通りにはならないものです。熱いコーヒーを冷たく感じようとしても無理ですし、熱いコーヒーのままにしておきたいと考えていても湯気が出て刻一刻と冷めていきます。同じ時間はもう二度と訪れないということです。
こうであったらイイのに、こうすべき、こうでなければならない、とご自分や他人を責めるのは、人間の思いです。本来人間の思いとは違うところに命の働きがあります。ついつい思いを大切にしたくなるので、そちらに引っ張られていきますが、そんな時こそ命の働き”事実”に目を向けていくのです。目で見たものそのまんま。耳で聞いたものそのまんま。鼻から香ったものそのまんま。舌で味わったものそのまんま。体で感じたものそのまんま。思いが出てきてものそのまんま。これらを「六根」といいます。事実そのものに生きるということです。そこに思いの付け足しをしないということです。善悪、損得、そんなことを付け足す前にそこに事実があることに気づくということです。評価をしないのです。多くの人と生活する避難所では、人の言動がきになるでしょう。そんな中でその人そのままを見る。評価ゼロで接してください。
れれれさんの今の様子を見ても、刻一刻と変化し続けています。虚無感を感じていた心は、10秒後には消えていることもあります。
同じ時は二度と来ません。大丈夫です。