お盆
息子が昨年亡くなりましたが、いまだにお骨は手元にあります。散骨を考えてはいますが、どうしても踏ん切りがつきません。
浄土真宗では、お盆は特別何かをしなくてはいけないことはないって聞きましたが、いつも通りの供養でいいのでしょうか?
また、お盆には毎年のご先祖様のお墓参りに行っていたのですが、どうしても行く気になれません。ご先祖様はいつでも私達の事を見守ってくれてるからいつもありがとうって感謝を伝えに行くんだよって言われて育ったのに、じゃあ、どうしても息子を助けてくれなかったの?と言う思いが強すぎて、行かなきゃとは思うのですが、どうしても行けない。考え出すと涙が止まりません。どうしていいかわかりません。
何が正解なんでしょう
お坊さんからの回答 2件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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踏ん切りがつくまでご一緒で大丈夫です 正解はたくさんありそう
はじめまして。
そうでしたか。大変おつらいことと思います。何をもってしても息子さんの代わりにはなりませんし、わたしの回答もきっと何の助けにもならないことは明白ですが、それでも、お気持ちになるべく寄り添う努力をしたいです。
浄土真宗では「お盆だから」と特別なことはしなくて良いです。南無阿弥陀仏とご縁のあった人は阿弥陀仏が責任をもってお浄土へ招き、阿弥陀さまと同じ仏にしてこの世界にかえされます。お盆に限らずかえってきています。
ただ、特別なことはしなくて良いと言われても、こころや気持ちは特別な状態になっていると思われますので、自分のこころを穏やかにできるようなことは、なさって良いと思います。僧侶を呼んで一緒にお経をいただくとか。人によっては読経の間にいろいろとりとめなく考えると聞きます。浄土真宗のお経の内容はだいたいが「阿弥陀様が救う」「大丈夫です」くらいな意味です。僧侶に限らず誰か聞いてくれる人をみつけて、「どうしていいかわからない」という気持ちを伝え、ちょっとでもこころを寄り添わせてくれるようにしてもらうとか。
お墓参りの説明の「ご先祖様はいつでも私達の事を見守ってくれてるからいつもありがとうって感謝を伝えに行くんだよ」について考えますと、……。
……これは模範解答だと思いますが、少し足りないと思います。
お墓にはご遺骨が保存されています。往く人はお浄土に往かれていますので、お墓に行ったから会えるというわけではありません。ただ、お浄土に往かれて南無阿弥陀仏という仏さまになり、この世界にかえって来られるので、お墓ではない場所でも会えています。
ご遺骨が保存されているお墓では、その人を偲びやすい環境が整っているように思います。お墓は、まずは追悼の場、思い出す場なのではないかと思っています。お礼はそれにプラスなのだと思います。
涙が止まらないのも、どうしていいかわからないのも、「ふつう」というか、どちらかというと正常というか、涙がピタリと止まるとかどうしたら良いかが明確であるとかよりは、あるであろう状態であるように、わたしには思われます。
ご遺骨は、周囲は逆に心配なさっていろいろおっしゃるかもと思いますが、ずっと一緒でも構いません。そういう場合もあります。
おつらそうです。お念仏申しております。
「お骨を手放せない」──それは自然な、愛のかたちです
お骨をずっと手元に置いておられる。
それは「踏ん切りがつかない」のではなく、「いまもなお深く愛しておられる」からです。
手放すことに迷いや苦しさがあるのは、当然です。
無理に散骨をしなくてはいけないわけではありません。
仏教は、「形」よりも、「心」を大切にする教えです。
いま大切なのは、
「私がどうすれば、息子に心をまっすぐ向け続けられるか」
という問いに、自分なりの答えを見つけることです。
散骨するもしないも、「愛のかたち」であるならば、すべてが供養です。
お盆という時期は、私たちが「亡き人を思い、心を整える機会」として大切にしてきた習慣でもあります。
だからこそ、「今年はできない」ことも、自然な心のあらわれであり、罪ではありません。
「どうして助けてくれなかったの?」という思いは、とても正直で、痛みの中から絞り出されるような叫びです。
それを無理に打ち消そうとせず、まずはその怒りや悲しみを、仏前でそのまま語ってみてください。
たとえお墓に行けなくても、自宅の仏壇や、手元にあるお骨の前で、
「どうしてなの」「まだ苦しいの」と声に出していいのです。
仏もご先祖も、それを責めたりはしません。
むしろ、あなたのその涙こそが、仏にもっとも近い場所にある“祈り”なのです。
「どうしていいかわからない」
「これが正解なのか…」
そう思われるのは、あなたが、亡き息子さんにも、ご先祖にも、そしてご自身の心にも誠実でありたいと願っているからです。
仏教の言葉に、こんな教えがあります。
「正しいかどうかよりも、まごころであるかどうか」
いま、涙しながら、それでも手を合わせようとしているあなたの姿。
それが、亡き方にとって何よりの供養であり、仏にもっとも近い心のありようです。
■最後に、どうかご自身を責めないでください
人は、「亡き人を想うこと」で、自分を責めてしまうことがあります。
けれど仏さまは、あなたを責めてなどいません。
亡き息子さんも、あなたのそばで、ずっとあなたの悲しみを感じながら、共にいてくれているはずです。
どうか今は、「できない自分」もそのまま抱きしめてあげてください。
仏は、「そのままのあなた」を、まるごと受け入れてくださっています。
あなたと、亡きお子さまの心が少しでも穏やかに包まれることを、深く祈念しております。
合掌
質問者からのお礼
石田様
優しいお気持ちありがとうございます。息子を助けてやれなかった後悔だけが日々募る中、お盆が近くなり、ご先祖様のお墓参りには行かなきゃと言う気持ちと行きたくない気持ちのせめぎ合いの毎日です。私も主人も実家は真言宗で六道についての説法を聞いて育ったため、どうしても彼を菩提寺で弔うことをしたくなくて、遠方と言うこともあり、浄土真宗のお坊さんにお願いしてお葬式をあげていただきました。
死んでまで修行だなんて、この世で苦しみ抜いた彼をその教えに基づいて供養するのは無理でした。もう苦しまないで欲しい泣かないで欲しいただただそれだけなのです。
息子が心安らかでいる事だけが私の願い。
早く彼のところにいきたい
鈴木様
全てを包み込んでくださるような優しいお言葉ありがとうございます。
息子を助けてくれなかったご先祖様に対する八つ当たり的な想いを肯定していただけて、少し心が楽になりました。私は大切な息子ひとり、幸せにすることができなかったどうしようもない親です。毎日、どうしてあげていたら、息子を幸せにしてやることができたのだろうと自問自答の日々。ご先祖様にはお前が息子を助けなかったから、息子を助けるためにあの世に連れて行ったんだと言われてる気もして、ご先祖様に当たり散らして、お墓参りをボイコットするのもどうなの?とか最低な自分が許せなくてどうしていいかわからなくなって鬱々とした毎日を送っていました。本当にありがとうございます。